ゴア
インド西岸の貿易港。1510年にポルトガルに占領され、その植民地支配の拠点として長く続いたが、第二次世界大戦後の1961年にインドよって接収された。
ゴア GoogleMap
ポルトガルは、1498年にヴァスコ=ダ=ガマの艦隊がカリカットに到達した後、イスラーム商人と香辛料貿易の利益を巡って競合するようになった。ポルトガルの初代インド総督となったアルメイダは1509年、ディウ沖の海戦でマムルーク朝海軍を破って足場を固めようとした。
アルブケルケによるゴア征服
アルメイダに代わってインド総督となったアルブケルケは、マラバール海岸の拠点としてゴアに着目し、1510年2月にゴアを襲撃し、激戦の後11月、占領して数日にわたってムスリムを虐殺し、モスクを避難所もろとも焼き払った。その跡地にポルトガル領ゴアを建設、軍事基地・商業港とした。(引用)そしてアレキサンドリアの聖女カタリナの祝日、即ち、十一月二十五日に、アルブケルケは攻撃の命令を下した。二個小隊が市の西側の断崖に突撃し、他の一隊は、市の南方へ迂回した。午前十一時頃、激戦は、すでにポルトガルの勝利を告げていた。だが、回教徒側は、尚も四日間、市街に立て籠もって応戦し、多数の死傷者を出すに至った。回教寺院に押しこめられたビジャプールの兵は、寺院もろとも焼却された。東の水路への道には死屍が累々と横たわった。アルブケルケは、翌月、国王に宛てた戦況報告において、回教徒の男女六〇〇〇名を殺し、兵士多数を討伐したが、「土地の農民とブラマンは殺害しないように命じた」と述べている。聖女カタリナは、新たにキリスト教徒の町となったゴアの保護の聖人として景迎され、ポルトガル軍が市街に突入した地点には、後に聖カタリナ聖堂が建立された。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中公公論社 p.24>
黄金のゴア
1524年にはヴァスコ=ダ=ガマがインド総督としてゴアに着任、その年に現地で死去した。その後、ゴアはポルトガルのアジア支配の第一の拠点として繁栄し、「小リスボン」とか、「黄金のゴア」と言われた。ポルトガルのゴア占領後の1526年に北インドでムガル帝国が成立した。1573年には、ゴアのポルトガル総督は、アグラのアクバル帝に使節を派遣している。(引用)ポルトガルの艦隊は、ゴアからリスボンへの帰航の際、マラバール海岸の諸所に寄港し、最盛期には全ヨーロッパの消費量の約七〇パーセントにあたる二〇〇〇トン以上の胡椒、およびモルッカ諸島からマラッカを経て輸送してきた丁子と肉ズク、それにスリランカの肉桂等を積み込んでリスボンにもたらし、莫大な利潤を収めたのであった。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中公公論社 p.76>
Episode ザビエルの銀の棺
1542年にイエズス会宣教師フランシスコ=ザビエルがアジア布教の拠点としてゴアで活動し、1547年にマラッカで出会った日本人ヤジロウとその従者をゴアの聖パウロ学院で学ばせた。ヤジロウはそこで洗礼を受け、ザビエルの案内者として1549年に鹿児島に着いた。ザビエルは日本に続いて中国で布教として一旦ゴアに戻った後、1552年に広東の上川島で病没、その遺骸はゴアに運ばれ、その遺体は現在もゴアのボン・ジェズ教会の立派な銀の棺に収められている。なおその右腕は切断されてローマに送られ、ジェズ教会の金のケースに収められている。また、1583年には日本の天正少年使節の一行がゴアを経由してローマに向かい、帰路の1588年にはその一人原マルチノがラテン語での演説を行い、その原稿が聖パウロ学院の印刷所で印刷された。しかし、聖パウロ学院は、ゴアが衰えた後に取りこわされ、現在は廃墟の中に前面だけが残されているという。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中公公論社>ゴアの衰退
ゴアは1510年のポルトガルの占領以来、「黄金のゴア」といわれる大都会に発展し、16世紀末を最盛期として人口は30万に達したが、1640年代には、急速に衰えた。急速な衰退の原因は、第一にその頃本国のポルトガルがスペインに併合(1580~1640年)されたことである。第二はモルッカ諸島と日本にまで拡がった勢力範囲は、小国ポルトガルにとって広大に過ぎ、17世紀にはアジアに進出ししたオランダとイギリスによって制海権を奪われたことが挙げられる。1639年(日本でポルトガル人の来港を禁止した鎖国令が出された年)にポルトガル海軍はモルムガン沖でオランダ海軍に致命的な打撃を蒙っている。1641年には、極東貿易の最大基地マラッカも、オランダ人の掌中に帰した。第三の原因は、コレラ、マラリヤ、赤痢、性病、チブスなどの伝染病に何度か襲われたことである。そのため人口が急減し、かつて繁栄した市街地(旧ゴア)は廃墟同然となり、19世紀にはマンドビ川河口左岸に移転(新ゴア)した。インドによるゴア接収
1961年12月15日、インド政府はポルトガル政府(サラザール独裁政権)に対して「インドにある三ヶ所のポルトガル領(ゴア・ディウ・ダマン)をただちに放棄せよ」との覚書を提出した。これは前年のアフリカの年に国際連合総会での「植民地独立宣言」の採択を受けてのことであった。ソ連のブレジネフ最高会議幹部会議長がその直後にインドを訪問、ネルー首相に対してゴア問題ではソ連はインドを全面的に支援すると声明を発表した。12月18日午前0時半、インド軍はゴア以下の三ヶ所に侵攻を開始し、それに対してポルトガルのサラザール首相は、国民に向けて、インドはゴアを侵略しようとしている、ポルトガル軍は自衛的行動をとる、とのコミュニケを発表した。インド海軍は陸海空から猛攻撃、ポルトガル総督とその家族はパキスタンに逃れた。こうしてゴアはあっけなく陥落し、ディウ、ダマンもインド軍に接収され、ポルトガルの451年にわたる植民地支配は終わりを告げた。ゴアはこの時、多くの文化財が破壊されて荒廃し、かつての繁栄は見るかげもなくなってしまった。<松田毅一『黄金のゴア盛衰記』1977 中公文庫>