デュプレクス
フランス東インド会社のポンディシェリ知事。1744年からのイギリスとのカーナティック戦争(第1次・第2次)でフランス軍を優位に導いたが、1754年に本国政府と対立して召喚された。
デュプレクス
カーナティック戦争でイギリスを圧倒
1744年にイギリス東インド会社軍との第1次カーナティック戦争が始まると、デュプレクスは陸上の戦闘では傭兵隊に近代的な装備を施し、カーナティックの太守(ナワーブ)軍を圧倒、海戦においてもイギリス軍に対して優位に戦った(~48年)。これらの戦いでは、イギリス東インド会社軍の司令官クライヴを好敵手として戦争を繰り広げた。1746年にはデュプレクスの指揮するフランス軍がイギリスの拠点マドラスを占領するという戦果を挙げている。ただしマドラスはその後の交渉でイギリスに返還された。デュプレクスの解任
その後、デュプレクスは現地の太守の後継争いに巧みに介入し、その傀儡とすることに成功し、フランスの勢力を南インドとデカン高原に広げていった。危機感を持ったイギリス東インド会社が攻撃を仕掛け、第2次カーナティック戦争(1750~54年)となった。イギリス軍はクライヴが指揮を執り、軍事的才能を発揮してフランス軍は後退した。ところがフランス本国では、この戦争はデュプレクスが独断で開始したものであるとして、1754年にその地位から解任してしまったため、デュプレクスは本国に帰還しなければならなかった。有能な軍事指導者を失ったフランス東インド会社軍は、ヨーロッパでの七年戦争の勃発に伴ってインドで始まったプラッシーの戦い(1757年)と第3次カーナティック戦争(1758~61年)で敗北し、拠点ポンディシェリも占領され、インド植民地経営から大きく後退することとなった。