マドラス/チェンナイ
インドの東海岸、ベンガル湾に面した港湾都市。1639年、東インド会社が拠点を建設、それ以来イギリス植民地支配の中心地の一つとなった。イギリス本国とインド、さらに東南アジアや東アジアとの交易で繁栄した。現在は本来の地名であるテェンナイに戻されている。
チェンナイ(旧マドラス) Google Map
マドラスの建設
17世紀初頭、インドへの進出を進めたイギリス東インド会社商館長フランシス=ディは、1639年5月、チェンナイ・パッタナムといわれたこの地に初めて上陸、将官と要塞の建築許可を取得した。東インド会社は既にこの地の北方のアルマガオンに商館を設けていたが、綿花栽培の中心地に近いところに商館建設地を求めていたのだった。この地はタミル人漁民の住む一漁村に過ぎなかったが、オランダは既にその北部のプリカットに、ポルトガルはその南にサントメという拠点を設けていたので、その間に割り込むかたちとなった。イギリスとの交易を望んだ土着の領主からこの村を割譲されたフランシス=ディは、翌1640年、商館の建設に着手し、港を防備するセント=ジョージ要塞を完成させた。インドへの進出では後れをとったフランスは、1674年にフランス東インド会社の拠点をマドラス東海岸(コロマンデル地方)のマドラスの南方約160kmのポンディシェリに建設し、イギリスとインド交易の覇権をめぐる抗争を開始した。 → インド(6)ヨーロッパ勢力の進出
マドラスの自治
マドラスは背後に綿花生産地帯が控えていたことから、イギリスの拠点として重視され、1658年にはイギリス議会はインド最初の本格的な商館兼要塞として認め、ベンガルからインド東岸に及ぶ地域を統括することとなった。マドラスには、セント=ジョージ要塞内(ホワイトタウンと言われた)に商館員が住み、城外(ブラックタウンと言われた)にはインド人の綿織物職人が集められ、急速に人口が増え、17世紀半ばでホワイトタウンに118戸、ブラックタウンに75戸だったものが、1750年にはブラックタウンで8700戸に増大している。ホワイトタウンのイギリス人は、1688年(本国で名誉革命があった年)に、マドラス総督と東インド会社の名で「市長・市参事会員憲章」を公布し、「セント=ジョージ要塞から10マイルの範囲にある区域を“マドラス市”と定め、ここに市長、参事会員、代表議員の名によって市参事会(マドラス・コーポレーション)を創設する」と宣言した。この時のマドラス総督のエリフ=イェールは、帰国後、その私財と蔵書をもとに大学の創設に参画し、後のイェール大学の基礎をつくった人物である。市参議会は、市長(任期一年)の他に、12名の終身市参事会員、60余名の代表議員によって構成された。終身市参事会員のうち3名は東インド会社社員から選ばれたが、その他にはフランス人やユダヤ人、ポルトガル人の商人とインド人の仲買商も含まれていた。市参事会は徴税の他に治安維持や社会福祉に関する権限を持ち、さらに選ばれた長老が治安判事として裁判の任にも当たった。
マドラスのブラックタウンと言われたインド人居住区には、撚糸・織布・染色などの職人と、原料・商品の納入にあたる商人などが職能集団(カースト)ごとに居住し、マドラス総督は彼らを世襲的な役人集団や警固役と言われる土着役人などのカーストを通じて統治した。<重松伸司『マドラス物語』1993 中公新書 p.175-196>
サントメの併合
マドラスの南方わずか5kmのところにポルトガルの商館都市のサントメがあった。サントメはキリストの12使徒の一人聖トマス(サン=トメ)がこの地に布教して殉教したという、シリアから興ったキリスト教一派の伝承があった(もちろん歴史的な事実としては証拠はない)。その説話がヨーロッパにも伝えられていたので、ポルトガルのヴァスコ=ダ=ガマがインドに向かった理由の一つが「インドでキリスト教徒を探す」ということだった。カリカット、ゴアなどインドの西海岸に拠点を設けたポルトガルは、1522年にサントメに進出して商館と教会を建設し、交易の拠点とし、胡椒に加えて新たな産品として綿織物を手に入れ、ヨーロッパや東アジアに輸出した。サントメはこうしてポルトガルの拠点の一つとして栄えていたが、17世紀にはいるとオランダがジャワ島のバンタムを拠点としてインドの東海岸(コロマンデル)との交易に乗り出し、拠点としてその北にプリカットを設けると、次第にそれにおされて衰退した。替わって1640年代から活動を開始したマドラスが急成長し、ほぼ1世紀後の1749年にサントメはマドラスに組み込まれ、イギリス領となった。現在もサントメ地区はマドラス(チャンナイ)市内の歴史的地域として聖トーマス教会などが歴史的遺産として残されている。Episode 江戸で大流行したインド産の綿織物
江戸時代の中ごろ、江戸の町人が粋を競って身につけた縦縞模様の木綿を「唐桟(とうざん)」といった。これは「外国渡来の桟留(さんとめ)」の略で、桟留とは南インドのサントメのことなのである。サントメは現在はマドラス(チェンナイ)の一部に組み込まれているが、もとはポルトガルの商館がおかれていたところで、インド産の綿織物の産地の中心だった。そこで作られた縞模様の綿織物が、オランダ人商人によって鎖国時代の日本の長崎にもたらされ、寛政年間から江戸で大流行したのだった。当時の江戸風俗では縦縞の「唐桟」の着物を着ることが最も粋なファッションだったわけだ。しかしほとんどの人がその原産地がインドだったことは知らなかったに違いない。<以上、サントメについては重松伸司『マドラス物語』1993 中公新書を全面的に参照>フランスとの抗争
イギリス東インド会社の商館都市マドラスは、綿花の産地であるコロマンデル地方を抑える拠点として、その南方に築かれたフランスのポンディシェリーと対抗することとなった。第2次英仏百年戦争とも言われた英仏植民地戦争はインドでも激しさを増し、カーナティック戦争(第1次)中の1746年には、デュプレクスの率いるフランス軍が、一時マドラスを占領した。ヨーロッパでのオーストリア継承戦争の終結に伴い、1748年にイギリスに返還された。1757年のプラッシーの戦いではクライヴがマドラスからベンガルに進軍してフランス軍とベンガル太守の連合軍を破ったことによってイギリスの優勢があきからとなり、並行して起こったカーナティック戦争(第3次、1758~61年)で、イギリスは南インドを制圧し、覇権を確立させた。それによってマドラスは西海岸のボンベイ(現ムンバイ)、ベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)とともにイギリスのインド支配の三管区の一つとなった。インド全体の行政と軍事の最高責任者はカルカッタ駐在の総督であったが、ボンベイとマドラスの州知事にも緊急事態と地域的特性に応じた権限が与えられた。
18世紀末のマイソール戦争ではマイソール王国がマドラスの奪還をはかり、イギリスは危機に陥っている。マイソール王国は1780年には8万の軍でマドラスに迫り、総攻撃を加え、一時はイギリス人は海上の軍艦に避難した。しかしこのときは東インド会社軍がマドラスの防衛した。イギリスのベンガル総督は1799年にマイソール王国に侵攻してティプー=スルタンは戦死、マイソール王国が滅亡したため、マドラスはイギリスのインド東岸での植民地支配の安定した拠点となり、繁栄を続けた。なお、マドラス管区での税制は、個別農民から直接徴税するライヤットワーリー制が施行されている。