印刷 | 通常画面に戻る |

英仏植民地戦争/第2次百年戦争

17世紀末~19世紀初頭、イギリスとフランスは、ヨーロッパ本土において戦争を繰り返しただけでなく、アメリカ植民地・インド植民地においても激しく抗争した。その長期にわたって断続的に繰り返された両国の戦争を、14~15世紀の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも言う。この長期間の戦争は、植民地大国としてのイギリスと、ブルボン絶対王政のフランスの双方の体制を変質させることとなった。

 17世紀に主権国家を形成させたイギリスとフランスは、イギリスは立憲王政、フランスは絶対王政の違いはあったが、いずれも重商主義経済政策をとって植民地獲得に乗り出した。17世紀中頃から両国の東インド会社は直接的に抗争を開始し、18世紀になるとアメリカ新大陸とインドにおいてたびたび戦闘を展開した。17世紀末から18世紀にかけて、ヨーロッパで続いたファルツ戦争スペイン継承戦争オーストリア継承戦争七年戦争はフランス・ブルボン朝とオーストリア・ハプスブルク家の勢力争い、新興勢力プロイセンの進出などを軸として同盟関係は複雑に変化したが、イギリスとフランスは一貫して敵対した対立軸であった。それは、この両国が植民地において利害が対立していたためであった。
 イギリスとフランスは、北米新大陸では、現在のアメリカとカナダにおよぶ広い範囲で、アン女王戦争、ジョージ王戦争、フレンチ=インディアン戦争が繰り返された。この一連の植民地での戦争は、イギリスの優位のうちに進んだ。
 インドにおいては、ムガル帝国の分裂と弱体化にともない地方政権の対立抗争に巻きこまれながら、英仏両国は1744年からのカーナティック戦争、1757年のプラッシーの戦いなどを戦った。インドでの戦闘も最終的にはイギリスが勝利を占め、インドはイギリスの最も重要な植民地となっていく。
POINT  このようにこの時期のイギリスとフランスは、植民地での戦争という、いわば世界戦争とも言える広がりを持って戦っていた。教科書ではヨーロッパの動き、植民地の動きが別項目として説明されるが、その結びつきに十分注意しながら学習しよう。またこの戦争が、次のアメリカ独立とフランス革命という激動をもたらした意味を考えよう。

第2次百年戦争

 イギリスとフランスの第2次百年戦争は、ファルツ戦争(1688年~)とウィリアム王戦争(1689年~)から始まった、植民地(主にアメリカ大陸とインド)における勢力拡大の争いと、ヨーロッパにおける利害の対立が結びついた戦争で、ナポレオン戦争でイギリスが勝利した1815年まで続いた。
 その前半は、ヨーロッパの覇権を目指すフランスのルイ14世に対して、イギリスがオーストリア・プロイセンなどと同盟して戦い、同時にアメリカ新大陸・インド植民地で利害を衝突させて戦った。この植民地における戦いは、1759年にほぼイギリスの勝利に終わったが、両国ともその戦費捻出のための増税策に対する反発から、イギリスでは植民地アメリカの独立、フランスではフランス革命でのブルボン朝の倒壊という大きな犠牲を払った。
 後半は、1775年からのアメリカ独立戦争、1789年のフランス革命とそれに続くナポレオン戦争という大変動のなかでの両国の対立となって展開する。ナポレオンはイギリス侵攻を最終目的としたが果たせず、再起後、1815年、ワーテルローの戦いでイギリス軍に敗れて英仏の第2次百年戦争は終わった。その後、両国は戦火を交えることなく、現代に至っている。

英仏の第2次百年戦争の経緯

 この第2次百年戦争といわれる時期のヨーロッパと植民地での両国の戦争を列挙すると次のようになる。
前半 17世紀末~18世紀中期 前半の重要な講和条約 後半 18世後半~19世紀初頭  なお、ナポレオン戦争後は、イギリスとフランスが戦うことはなくなり良好な関係が続いている。

イギリスの勝利の理由

 この一連の戦いはアメリカ独立戦争を除いて、イギリスの勝利であった。このイギリスの軍事的勝利をもたらした理由は、ウィリアム3世が1694年にイングランド銀行を設立し、国債を募集して戦費に充てるという、財政確保に成功したことがあげられる。国債に応募したのは地主や産業資本家で、またこの時は金融先進国であったオランダの資金も流れこんだ。この変革は「財政革命」とも言われ、国債という方法で資金を集め、財政を安定させることに成功し、その取り引きによって金融市場が活発となった。地主や産業資本家は自己の利益のためにイギリスの勝利と植民地拡大を期待し、国債を買うことでそれを支えた。このような資本と国家・戦争の結びつきは19世紀末に帝国主義を生み出すことになる。その国債の返済資金には税収が充てられたのであり、それを負担した中小農民の犠牲の上に成り立っていた。イギリスの場合は必要な税収を植民地への課税によってまかなおうとしたので、国内では貴族の反乱や民衆蜂起は起きなかった。しかし、植民地では課税強化に対する反発からアメリカ独立戦争が勃発した。
 一方、フランスも「財政改革」をめざしたが、それは宮廷費の節約や貴族への年金の停止と特権身分に対する課税による財源の確保であり、効率のよいものではなく、特権身分の反発から三部会が紛糾し、それがフランス革命への引き金となってしまった。

第2次百年戦争のもたらしたこと

 イギリスはフランスとの植民地抗争にうち勝ち、海外に広大な植民地を形成し、大西洋を舞台にしたヨーロッパ、新大陸、アフリカを結ぶ三角貿易を展開し、大英帝国の繁栄を謳歌した。それによって貯えられた資本により、18世紀60年代からの産業革命を実現させた。しかし、植民地戦争の負債をアメリカ植民地に対する収奪によってまかなおうという姿勢は植民地人の反発を招き、1775年にアメリカ独立戦争が起こった。
 フランスは、アメリカ独立戦争が始まると、当初は情勢を見ていたが、アメリカ有利と判断した1778年に参戦し、海上でイギリスと戦い、戦後は西インド諸島トバゴ・アフリカのセネガルを獲得した。しかし、長期にわたるイギリスとの抗争は、宮廷財政を困窮させ、それを機に貴族に課税をしようとしたブルボン王朝ルイ16世の統治に対して、貴族のみならず中産階級、農民が立ち上がってフランス革命の勃発となる。このように、英仏両国の植民地抗争は、両国に大きな影を落としている。 → 大西洋革命
印 刷
印刷画面へ