クライヴ
イギリス東インド会社軍の司令官。1757年、プラッシーの戦いでベンガル太守・フランス連合軍を破る。ベンガル知事として、1764年にはブクサールの戦いでムガル皇帝・ベンガル太守等の連合軍を破り、翌年にはベンガル州などのディーワニー(徴税権)を奪い、インド植民地支配の基礎を築いた。しかし帰国後、不正の疑いをかけられ自殺した。
クライブ
プラッシーの戦い
1757年、ベンガル太守がフランスと結び、イギリス勢力の排除に乗り出してコルカタの東インド会社の拠点を攻略するとクライブはコルカタの奪還に成功、そのころ本国でもフランスとの七年戦争が始まっていたので、独自にフランス軍との戦いを立案し、ベンガル太守の後継争いで太守の地位を狙う太守の一族のミール=ジャーファルをと味方に引き入れ、1757年、プラッシーの戦いでフランスの支援を受けたベンガル太守軍を破った。クライブの密約 クライブは密約によってミール=ジャーファルをベンガル太守に据え、その返礼として東インド会社がベンガルにもっていた特権のすべてを承認させ、また会社幹部に巨額の金額を支払うことを約束させていた。実際、プラッシーの勝利の後、ミール=ジャーファルは125万ポンドを超す金額を東インド会社写真や軍人に支払い、クライブ一人だけで23万4000ポンドと3万ポンド相当の給与地(ジャーギール)を受け取った。<『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 p.259>
クライブはベンガル知事(1758~60年)を務めた後、一時イギリスに帰国、プラッシーの勝利の立役者としての名声を得て、男爵に叙せられプラッシー男爵と言われた。その後、インドに戻りベンガル知事(2期め65年~67年)に再任された。
ブクサールの戦い
ベンガルでは、東インド会社=ベンガル知事による自由貿易によって経済を混乱し、またベンガル太守の権限に強く制限が加えられたことに対する不満が強まっていた。はじめイギリスと提携した太守ミール=ジャーファルも抵抗するようになるとその地位を追われ、代わった太守ミール=カーシムも自立の姿勢を見せ独自の軍隊をもとうとしたことから、東インド会社の武力介入を受けベンガルを追われた。ミール=カーシムはアワドの太守のもとに逃れ、デリーのムガル皇帝と連絡、この三者が連合してイギリスとの戦いを挑み、1764年にブクサールの戦いとなった。しかしこの戦いも、クライブ指揮の東インド会社軍に敗れ、特にムガル皇帝自身がイギリス軍と戦って敗れたことは重大な意味をもち、イギリスのインドにおける覇権が確立したといえる。ベンガルの徴税権を認められる
翌1765年8月、アラハバードにおいて、東インド会社を代表するクライブと、ムガル皇帝シャー=アーラム2世が条約を締結、ベンガル、ビハール、オリッサの地域のディーワーニー(徴税権と行政権を含む権利)が、ムガル皇帝からイギリス東インド会社に授与された。これによって東インド会社は単なる貿易会社ではなく、インドを直接支配する植民地支配機関へと変質し、イギリスのインド植民地支配に重要な一段階となった。Episode クライヴの権謀術数と悲劇的な死
ロバート=クライヴは18歳で東インド会社に雇われた事務官であった。しかし、1751年、第2次カーナティック戦争戦争でイギリス軍が不利な情勢になったとき、志願して500の兵を率いる少尉に任官し、めざましい戦果を挙げた。そしてプラッシーの戦いでは巧みな戦術と権謀術数でベンガル太守軍を破り、一躍英雄となった。この戦争ではクライヴは太守軍の軍司令官ミール=ジャーファルを買収し、戦闘で主力部隊が動かないという約束を取り付けていた。それを知らぬ太守は命令を出しても動かない我が軍に絶望し、逃亡したが途中クライヴ軍に捕らえられて処刑された。クライヴは新しい太守に買収したミール=ジャーファルを就任させ、イギリスの傀儡にすることに成功した。クライヴは本国に帰ると英雄として迎えられ、男爵となった。ついでベンガル総督に任命され莫大な資財を蓄えることができた。1767年、病気のため職を辞してイギリスに帰ったが、帰国後はインドでの強引な振る舞いと巨額の資財を蓄えたことに非難がわき起こり、議会に喚問されることとなった。その結果無罪にはなったが財産は没収され、1774年、クライヴは世間の冷たい目と病苦のために、ナイフで自らの喉を切って生を断った。<河出書房新社版『世界の歴史』19 近藤治執筆分などによる>クライブは1747年11月、ロンドンのバークレー・スクエアの自宅で自殺した。ウェストミンスター寺院に葬られた。