プラッシーの戦い
1757年、インドでの英仏対立の一環で、イギリス東インド会社の覇権が確立した戦い。クライブの指揮する東インド会社軍が、フランスの支援を受けたベンガル太守軍を破り、戦後、親英的なベンガル太守に替え、有利な条項を締結、植民地支配の基礎を築いた。フランスの勢力はインドから後退することとなった。
1757年、インドのベンガル地方で起こった、クライヴ指揮のイギリス東インド会社軍とフランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル太守軍との戦争。このとき、イギリス・フランス両国は、南インドでも第3次カーナティック戦争を戦い、ヨーロッパでも七年戦争で対立関係にあり、アメリカ新大陸ではフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)を戦っていた。つまり、イギリスとフランスの英仏植民地戦争は、世界的な規模で展開されていたということになる。
ベンガル太守軍は数の上で圧倒的でシラージュッダウラも戦闘意欲に燃えていたが、ちょうど雨期に当たり当日も雨であったので大砲を使えず、おまけに太守軍に参謀長という立場で加わっていたミール=ジャフーァルの軍も動かなかった。戦機を逸したベンガル太守軍は、クライブ指揮の会社軍の小部隊が突撃すると一気に潰走して短時間で決着がついた。
東インド会社は太守シラージュッダウラを捕らえて殺害し、新太守にミール=ジャファールを据えた。なおこの時の戦争で、東インド会社のクライヴは、初めて2000人のインド人兵士を傭兵として雇った。彼らはシパーヒーと言われ、会社の軍事力を支えることとなる。<森本達雄『インド独立史』1972 p.9 /『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 p.258-560 など>
POINT プラッシーの戦いの意義
最終的には、七年戦争、プラッシーの戦い、カーナティック戦争、フレンチ=インディアン戦争、のすべてが終結した1763年に、関係諸国間でパリ条約が締結された。インド関係では、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有は回復したが、その他の権益はすべて放棄し、インドにおけるイギリスの覇権が確立した。
イギリス東インド会社の支配に不満を強めたベンガル太守は、同じような不満を強めていたアワド太守と同盟し、ムガル皇帝を動かして三者の連合軍を編成して抵抗の姿勢を示した。それに対してイギリス東インド会社軍は、1764年、ブクサールの戦いでベンガル太守らの連合軍を破り、決定的な勝利を得た。翌1765年イギリス東インド会社がムガル皇帝からベンガル地方などのディーワーニー(徴税権)を獲得し、単なる貿易商社からインド植民地支配機関へと転換した。このプラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年にはシパーヒーがイギリスのインド支配に抵抗して反乱を起こし(インド大反乱)、インド独立闘争の第一歩が始まる。
ベンガル太守と東インド会社の開戦
プラッシーはベンガル地方のカルカッタの北方にある村(現地ではポラシという)。ベンガル太守はムガル帝国から独立した地方政権で、当時シラージュッダウラが太守であった。ベンガル地方は豊かな農業生産力を有しており、イギリス東インド会社はその地への進出を狙い、フランスの進出に備えるためと称して太守の許可無くカルカッタ(現コルカタ)の要塞を増強した。ベンガル太守は工事中止を命じたが、イギリスが拒否したので出兵してカルカッタのイギリス兵を追い出した。東インド会社はただちにマドラス(現チェンナイ)から将軍クライヴの指揮する軍隊を派遣した。太守はフランス軍の援助を求め、1757年6月23日未明、両軍はプラッシーの野で対峙した。クライブの率いる会社軍はイギリス兵950、インド人傭兵2100、6ポンド砲8門。それに対して太守軍は歩兵5万、騎兵1万8千、にフランス人砲兵部隊の大砲40門が加わっていた。ベンガル太守の内紛
ベンガル太守シラージュッダウラはわずか20歳、祖父にあたる前太守に親仏的な立場をとっていた。イギリス東インド会社のクライブはそれにかわって前太守の義理の兄ミール=ジャフーァルを担ぎ出し、彼を太守の座につけるつけることを約束、その返礼として東インド会社がベンガルで持っている特権の承認、東インド会社幹部への巨額の金額の支払いことなどの密約を得ていた。ベンガル太守軍は数の上で圧倒的でシラージュッダウラも戦闘意欲に燃えていたが、ちょうど雨期に当たり当日も雨であったので大砲を使えず、おまけに太守軍に参謀長という立場で加わっていたミール=ジャフーァルの軍も動かなかった。戦機を逸したベンガル太守軍は、クライブ指揮の会社軍の小部隊が突撃すると一気に潰走して短時間で決着がついた。
東インド会社は太守シラージュッダウラを捕らえて殺害し、新太守にミール=ジャファールを据えた。なおこの時の戦争で、東インド会社のクライヴは、初めて2000人のインド人兵士を傭兵として雇った。彼らはシパーヒーと言われ、会社の軍事力を支えることとなる。<森本達雄『インド独立史』1972 p.9 /『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 p.258-560 など>
POINT プラッシーの戦いの意義
- プラッシーの戦いの実態は、ベンガル太守の地位をめぐる内紛であって、イギリスとフランスが正面から戦ったものではなかったが、クライブ指揮の東インド会社軍が軍事介入して勝利した。
- しかし、当時両国はヨーロッパ本土では七年戦争を戦っており、インドにおいても東南部海岸のカーナティック地方をめぐってのカーナティック戦争(第3次)と並行して間に起こっている。
- インドにおけるイギリスの覇権獲得の第一歩となった。次のブクサール戦争(1764年)でイギリスはムガル皇帝・ベンガル太守などの同盟軍と戦って勝利し、ベンガル地方などの徴税権を獲得する。
七年戦争と連動
イギリスとフランスは、インドにおけるプラッシーの戦いと同じ時期に、アメリカ大陸でのフレンチ=インディアン戦争、ヨーロッパ本土での七年戦争でも戦っており、南インドでは第3次カーナティック戦争も平行していた。これらは英仏植民地戦争または英仏百年戦争(第2次)ともいわれる、「世界戦争」の一環だった。それにしてもイギリス・フランスとも18世紀の中頃すでにヨーロッパだけでなくアメリカ大陸とインドにおいても、同時に戦争をしていたという、その貪欲さには驚かされる。最終的には、七年戦争、プラッシーの戦い、カーナティック戦争、フレンチ=インディアン戦争、のすべてが終結した1763年に、関係諸国間でパリ条約が締結された。インド関係では、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有は回復したが、その他の権益はすべて放棄し、インドにおけるイギリスの覇権が確立した。
イギリス植民地支配の完成へ
ベンガル太守はイギリス東インド会社のベンガルでの特権をみとめたが、それによってイギリスは無関税の自由貿易を行った。そのため経済と産業は打撃を受けた。ベンガル太守は財源も圧迫されただけでなく会社の介入によって政治の実権も失い、不満を強めていった。プラッシーの戦いはイギリスのインド植民地支配の第一歩となっただけでなく、早くもその矛盾が表面化することとなった。イギリス東インド会社の支配に不満を強めたベンガル太守は、同じような不満を強めていたアワド太守と同盟し、ムガル皇帝を動かして三者の連合軍を編成して抵抗の姿勢を示した。それに対してイギリス東インド会社軍は、1764年、ブクサールの戦いでベンガル太守らの連合軍を破り、決定的な勝利を得た。翌1765年イギリス東インド会社がムガル皇帝からベンガル地方などのディーワーニー(徴税権)を獲得し、単なる貿易商社からインド植民地支配機関へと転換した。このプラッシーの戦いからちょうど100年後の1857年にはシパーヒーがイギリスのインド支配に抵抗して反乱を起こし(インド大反乱)、インド独立闘争の第一歩が始まる。
Episode インドの関ヶ原の戦い
プラッシーの戦いはインドの覇権をめぐるイギリスとフランスの「関ヶ原の戦い」であった。その経過も157年前の日本の関ヶ原の戦いに似たようなところがある。東インド会社軍とベンガル太守軍はプラッシーの野で対峙した。6月23日午後、太守軍は攻勢に出たが、そこに思いがけない罠が仕掛けられていた。クライヴは、太守の参謀長ミール=ジャーファルを後任の太守にしてやることを条件に、謀反を働きかけていたのである。太守の軍のなかで戦ったのは親衛隊とフランス軍だけで、ミール=ジャーファルの指揮する主力は戦闘を傍観するだけで動かず、あろうことか太守軍が優勢になると参謀長は「明日の勝利を期して」退却を太守に進言した。太守が退却を決意して命令すると前線の兵士は混乱して戦意を失い、戦況は一転して会社軍が逆転した。ようやく気づいた太守はラクダに乗って逃れたが、数日後捕らえられて処刑された。小早川秀秋の役割を担ったミール=ジャーファルは戦後に新しい太守に任命されたが、カルカッタ周辺のザミンダーリー(地租徴収権)を譲らされ、さらに賠償金支払わされ、クライヴの傀儡にされてしまったことに気がついた。<森本達雄 同上 p.10 など>