カーナティック戦争
18世紀中頃、南インド諸国の対立に介入したイギリスとフランスが3次にわたって抗争した戦争。南インド東海岸一帯の在地勢力の争いに、ヨーロッパのオーストリア継承戦争・七年戦争で対立していた英仏が介入、イギリスの優位が進み、イギリスのインド植民地化の第一歩となった。
カーナティック戦争は第1次が1744年~48年、第2次が50~54年、第3次が58~61年の3次にわたって展開した。カーナティックとは地名で、南インドの東海岸一帯を言う。その地方は、イギリス東インド会社がマドラス(現在のチェンナイ)、フランス東インド会社がポンディシェリを拠点として、それぞれインド経営を展開していた。
この戦争はインド植民地支配の主導権を巡って、イギリスはクライヴ、フランスはデュプレクスに率いられた両軍が、現地勢力とそれぞれ結んで衝突したものである。またヨーロッパでは同時にオーストリア継承戦争(1740~48年)・七年戦争(1756~63年)が展開され、一種の世界戦争の観を呈している。
・第二次カーナティック戦争 1750~54年 カーナティックの太守(ナワーブ。形式的にはムガル皇帝から任命される地方官だが実質的なその地方の支配者となった)の地位を巡る、現地インドの対立にイギリス・フランスが介入するという図式となった。さらに周辺の有力国ハイダラバードとマイソールがいずれかにつき、南インドを二分する戦争となった。まずデュプレクスが傀儡を太守とすることに成功したがイギリスが反発して戦争となり、クライヴの率いるイギリス東インド会社軍が活躍した。このときは本国では戦争状態ではなかったのに勝手に戦争を起こしたとしてデュプレクスは解任され、いったん終結した。フランスはカーナティックでの主導権を失った。
・第三次カーナティック戦争 1758~61年 ヨーロッパ本土での七年戦争と連動し、プラッシーの戦いと並行して起こった。イギリス軍がポンディシェリを占領するなど圧勝し、フランスの後退は決定的となった。
この三次にわたるカーナティック戦争は、基本的にはヨーロッパにおける戦争と連動したイギリスとフランスの争いであったが、在地勢力が巻き込まれていく過程で、イギリス・フランスというヨーロッパ列強の優越した軍事力が立証され、その抗争を優勢に進めたイギリスのインドにおける植民地支配の第一歩となった。<辛島昇『インド史』2021 角川ソフィア文庫 p.136>
これら一連のインドにおける植民地抗争は、ヨーロッパ本土とアメリカ植民地での英仏植民地戦争あるいは英仏百年戦争(第2次)として展開されたものであり、直接的には勝利したイギリス第一帝国を成立させたが、同時に英仏ともに長期化した戦争は財政を圧迫し、それがアメリカ独立革命とフランス革命の遠因となった。
この戦争はインド植民地支配の主導権を巡って、イギリスはクライヴ、フランスはデュプレクスに率いられた両軍が、現地勢力とそれぞれ結んで衝突したものである。またヨーロッパでは同時にオーストリア継承戦争(1740~48年)・七年戦争(1756~63年)が展開され、一種の世界戦争の観を呈している。
戦争の経緯
・第一次カーナティック戦争 1744年~48年 ヨーロッパでのオーストリア継承戦争で戦争していた英仏両国は、インドにおいてはまず海上で衝突し、陸上ではデュプレクスの率いるフランス軍がマドラスを占領し、フランスの威信が高まった。オーストリア継承戦争終結に伴って、インドでも停戦となり、マドラスはイギリスに返還された。このときはインドの各勢力は直接加わることは少なかった。・第二次カーナティック戦争 1750~54年 カーナティックの太守(ナワーブ。形式的にはムガル皇帝から任命される地方官だが実質的なその地方の支配者となった)の地位を巡る、現地インドの対立にイギリス・フランスが介入するという図式となった。さらに周辺の有力国ハイダラバードとマイソールがいずれかにつき、南インドを二分する戦争となった。まずデュプレクスが傀儡を太守とすることに成功したがイギリスが反発して戦争となり、クライヴの率いるイギリス東インド会社軍が活躍した。このときは本国では戦争状態ではなかったのに勝手に戦争を起こしたとしてデュプレクスは解任され、いったん終結した。フランスはカーナティックでの主導権を失った。
・第三次カーナティック戦争 1758~61年 ヨーロッパ本土での七年戦争と連動し、プラッシーの戦いと並行して起こった。イギリス軍がポンディシェリを占領するなど圧勝し、フランスの後退は決定的となった。
この三次にわたるカーナティック戦争は、基本的にはヨーロッパにおける戦争と連動したイギリスとフランスの争いであったが、在地勢力が巻き込まれていく過程で、イギリス・フランスというヨーロッパ列強の優越した軍事力が立証され、その抗争を優勢に進めたイギリスのインドにおける植民地支配の第一歩となった。<辛島昇『インド史』2021 角川ソフィア文庫 p.136>
カーナティック戦争の結果
第1次と第2次ではフランスのデュプレクスの働きでフランスが有利に戦いを進めたが、デュプレクスが本国に召還された後の、第3次でイギリスが勝利を占め、プラッシーの戦いでの勝利もあってイギリスのインドにおける優位が確立した。1763年のパリ条約で、フランスはポンディシェリとシャンデルナゴルの領有は回復したが、その他の権益はすべて放棄し、インドにおけるイギリスの覇権が確立した。これら一連のインドにおける植民地抗争は、ヨーロッパ本土とアメリカ植民地での英仏植民地戦争あるいは英仏百年戦争(第2次)として展開されたものであり、直接的には勝利したイギリス第一帝国を成立させたが、同時に英仏ともに長期化した戦争は財政を圧迫し、それがアメリカ独立革命とフランス革命の遠因となった。