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ブリストル

イギリス中西部の海港都市。大陸向け毛織物の輸出港として栄え、17~18世紀には三角貿易での奴隷貿易の拠点港となった。

ブリストル GoogleMap

ブリストルはロンドンの真西約200km、大西洋とはブリストル海峡(セヴァーン川河口)を水路としてむすばれた古くからの良港で、中世には大陸向けの毛織物製品の輸出港であった。また、14世紀ごろからは、アイスランドグリーンランド沿岸のタラ漁で得られた保存用食材の塩漬けタラと、フランス南部やスペインのワインとの交易地として栄えた。
 1497年にはジェノヴァの商人カボット(イタリア名ジョバンニ=カボート)はブリストルから船出し、ニューファンドランドに到達した。16世紀にはブリストルを拠点とした船団が盛んにタラ漁に出漁した。

三角貿易・黒人奴隷貿易

 17世紀に入り、新大陸や西インド諸島との交易が始まるとその拠点として繁栄するようになった。特にイギリスとアフリカ大陸西岸、西インド諸島を結ぶ三角貿易の拠点として繁栄した。同様に、ブリストルより北にあるリヴァプールも三角貿易の拠点として栄えたが、18世紀後半からの産業革命時代になるとマンチェスターやバーミンガムなどの工業地帯に隣接したリヴァプールが再重要港となり、ブリストルは相対的に低落した。
 イギリスの三角貿易で、最も高い利益を上げ、重要視されたのが、アフリカ西岸から大西洋を横断して西インド諸島に黒人奴隷を移送する黒人奴隷貿易であった。ブリストルは黒人奴隷貿易を行う船舶の拠点港として大きな発展を遂げた。
(引用)17世紀イギリスのブリストルやフランスのボルドーは、西インド諸島からみると、16世紀世ペインのセビーリャに比すべき意味をもっていた。17世紀のブリストルとボルドーは、それぞれ英・仏両国のカリブ海貿易の拠点となったのである。……
 三角貿易が展開されるにつれて、ブリストルは商業都市として成長を遂げた。この市の商人で、ヴァージニアか西インド諸島へ向かう船舶に投機目的の商品を委託していない者はまずあるまい。といわれたのが1685年のことである。王立アフリカ会社の独占廃止を唱えた急先鋒は他でもないブリストル市であったが、それだけに、奴隷貿易自由化以降の9年間にこの市の商人たちは、年平均1万7883人にものぼる奴隷を西インド諸島に運んだものである。1700年、ブリストル港に船籍のある西インド諸島貿易船は46隻を数えた。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.220「資本主義と奴隷制」>

NewS 奴隷商人の銅像、港に投棄される

 2020年5月25日にアメリカのミネアポリスで起こった警察官による過剰な制御によって黒人容疑者が死亡した事件で、アメリカ中で黒人にたいする人種差別であるという抗議行動が起こり、一部で暴徒化した。デモは世界中に拡散し、イギリス西部のブリストルでは6月7日、17世紀に奴隷貿易で富を築いたイギリス人商人エドワード・コルストンの銅像が、デモ隊に引き倒され、港に投げ込まれた。コルストンは、約8万人の黒人をアフリカからアメリカ大陸に送った「王立アフリカ会社」の幹部として知られる。慈善活動には積極的だったとしてたたえられ、記念碑なども建てられているが、近年は評価を見直す動きが出ていた。
 イギリスメディアの映像によると、デモ隊はブリストルの中心部にあるコルストン通り沿いの広場にあった銅像をロープで引き倒し、踏みつけた。その後、港まで手で転がし、投棄した。アメリカではヴァージニアのリッチモンド(南北戦争で南部=アメリカ連合国の首都だった)で南軍のリー将軍の銅像の撤去する動きがあるという。<朝日新聞 2020/6/8 夕刊> → AFP BBnews
 さらに7月15日、黒人差別に対する抗議活動で引き倒された奴隷商人エドワード・コルストンの銅像の台座に、デモに参加した黒人女性の銅像が新たに据えられたという。新たな銅像は黒人女性が片手を突き上げている姿で、モデルとなったジェン・リードさんは「人種的な正義と平等への道を歩むのに役立つ」と歓迎したが、実際に設置したのはロンドンを拠点とする芸術家で無許可だったで、市当局は「台座の未来はブリストルの人々が決めなければならない」として16日に撤去した。この市当局の措置には賛否両論の声が上がっているという。<日刊赤旗 2020/7/18> → 黒人差別