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アメリカ連合国

1861年2月に結成されたアメリカ南部諸州の連合国家。アメリカ合衆国から分離し、北部とのあいだで南北戦争となる。大統領はジェファソン=デヴィス。首都はモントゴメリからリッチモンドに移った。1865年4月、北軍との戦いに敗れて消滅した。

 南部連合、アメリカ諸州連合ともいう。Confedelate States of America で略称CSA。1861年に始まった南北戦争で、アメリカ合衆国と戦ったアメリカ南部の諸州が結成した国家である。南部の綿花プランテーション地帯の大プランター(農園主)の支持を受け、黒人奴隷制維持拡大、自由貿易主義(綿花のイギリスへの輸出拡大)、反連邦主義(=州権主義。北部主体の連邦主義に反対)などが共通する理念であった。
 前年の11月、奴隷制拡大反対を掲げる共和党のリンカンの当選のしらせは、サウスカロライナの合衆国離脱への合図となった。12月、合衆国離脱を決するための州大会が開かれ、満場一致で脱退を決定した。サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス(脱退順)の各州が同調した。61年2月、アラバマ州のモントゴメリで会合した7州の代表は、「アメリカ諸州連合」の組織を結成した。ミシシッピのプランターとして、合衆国の公務に従事して令名のあった民主党員ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。
アメリカ連合国 南軍旗
アメリカ連合国の南軍旗
 1861年4月、南北戦争が勃発、その後ヴァージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナ4州が加わり、アメリカ連合国は11の州で構成されることになった。首都は当初はアラバマ州のモントゴメリに置かれていたが、間もなくヴァージニアリッチモンドに移された。
 右はアメリカ連合国陸軍が使用した南軍旗。アメリカ連合国は最初、左上に青地に★を7つ(最初に南部連合に加入した7州)で円を描き、赤字に白の横棒一本の国旗を制定したが、合衆国の星条旗と紛らわしいので、陸軍が使っていたこの旗を一部に採り入れ、白地一色(白人支配を意味する?)の左上に陸軍旗を置いたものを国旗とした。その後も多少の変化がある。海軍は横長のものを使用した。星の数は最初は7つで、加盟州が増える度に★も増やし、最終的に13になった。南部連合は実質は11州であったが、ミズーリとケンタッキーにも南部加盟を主張する勢力があったため、その二つを加えて13とした。

南部の勝算と誤算

 南部諸州は、北部が分離を認めるだろうこと、認めないときに戦争になっても勝てる、と考えた。それは、イギリスが紡績工業の原料としての綿花を必要としたから南部を応援し、フランスのナポレオン3世もプランテーション貴族に好意を寄せている、と思っていたからである。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.269>
 その見通しの通り、イギリス・フランスの支援を受けて、南部(アメリカ連合国)軍は騎馬技術に優れた南部の白人入植者を主体に編成され、アメリカ陸軍有数の有能な将官であったリー将軍の活躍もあって優勢に戦いを進めた。しかし、工業生産力に勝る北部も屈せず、戦闘は長期化した。リンカンは奴隷制については当初は「拡大反対」の立場にとどまっていたが、1863年1月に奴隷解放宣言を発し、奴隷解放を戦争目的に掲げると、国際世論も北部支持に傾き、さらにリンカンが前年1月に出したホームステッド法によって西部の農民の支持を受けるようになったこともあって、情勢は逆転し、63年7月のゲティスバーグの戦いで南軍が敗れ、65年4月に首都リッチモンドが陥落してリー将軍が降伏して南軍の敗北に終わった。大統領と閣僚、議会は逃亡したが、ジェファソン=デヴィスは途中で捕らえられ、投獄された。

モントゴメリのできごと

 南北戦争は北軍の勝利で終わり、黒人奴隷制度は廃止され、黒人は身分上は奴隷ではなくなった。しかし、アメリカにとって黒人差別は、いまだに根深い問題として未解決のままに残った。南部ではさまざまな黒人取締法(ジム・クロウ法)が作られ、黒人分離政策のもとで実質的な人種差別が続いた。
 アメリカ連合国は当初に首都としたアラバマ州モントゴメリでは、第二次世界大戦後の1955年に、黒人差別撤廃闘争(公民権運動)のきっかけとなったバス=ボイコット事件が起こった。南北戦争から約100年後の話であるが、奇しくもこの時点でも黒人差別問題が深刻であったことを示す出来事であった。

なおも掲げ続た南部連合旗

 公民権運動によって1964年公民権法が成立し、黒人は法的には白人と平等になった。しかし、経済的格差の解消は進まず、なおも人種対立は絶えない。南部には現在もアメリカ連合国に対する郷愁を感じる人々が多く、たびたび問題が表面化しており、特有の現象として、南部連合旗をめぐる問題がある。
 南部のミシシッピ大学は保守的で、人種差別の激しい組織で、公民権運動のさなか、1962年には初の黒人学生として入学を希望していたジェイムズ・メレディスに対し、白人学生などが入学を妨害し、暴動にまで発展した。この大学は正式なシンボルマークとして南部連合旗を使用していたが、1981年にある黒人チアリーダーが、スポーツ大会にそれを持ち込むことを拒否した。ここから十年にわたる連合旗をめぐる論争が始まり、今日では大学のスポーツ大会では連合旗は姿を消した。
(引用)現在でもなお、南部連合旗は州レベルの政治問題として残っている。連合旗(the Stars and Bars)は奴隷制度や人種間の憎悪といった過去の悪しき慣習を象徴するものであるのか、あるいは南部の伝統や遺産を象徴するものであるのかについては、意見が分かれている。
 サウスカロライナ州(州都コロンビア)とアラバマ州(州都モンゴメリー)では、今でも州議事堂正面に連合旗が掲げられているのである。つい最近黒人がこれに抗議した。また2000年4月には、有名なテニス選手であるセリーナ・ウィリアムズが、サウスカロライナのトーナメントをボイコットして注目を浴びた。
 ジョージアとミシシッピ州旗のデザインにも、部分的に南部連合旗のデザインが組み込まれている。2001年、ミシシッピ州では、現在の州旗のままでいくか、それとも新しいデザインを採用するかについての住民投票が行われた。ちなみ新しい旗の候補のデザインは、三本の平行線に、円状に並べられた星が左肩についているものだった。
 しかしこの住民投票は、2対1の大差でこれまでの州旗が支持される結果となった。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.207-209>

NewS ミシシッピ州、州旗を変更。南部連合の象徴なくす。

 2020年5月、ミネアポリスで起こった白人警官による過剰な取り締まりで黒人被疑者が死亡した事件を受け、全米で黒人の人権擁護の声が起こり、BLM運動が盛り上がった。それをうけて、各地で黒人奴隷世時代の遺物、遺産を清算する動きが出ているが、アメリカ南部ミシシッピ州では、議会が6月28日、州の旗を変更する法案を可決した。これによって、全米で唯一、南北戦争時代の南部連合(南軍)の旗をデザインの一部に残していたが、それを取り除いたものに変えることとなった。法案は州議会下院で賛成91、反対23で可決され、続く上院でも賛成37、反対14で可決された。投票結果が読み上げられた際、上院議員からは歓声が上がったとの報道もある。BBCNEWS Japan 2020/6/29 ネット記事