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マサチューセッツ

ボストンを中心としたアメリカ東海岸北部にイギリス人が入植して建設した植民地。13植民地の中で早くから産業が発達し、独立運動の中核となった。

マサチューセッツ州 GoogleMap

1630年、イギリス王室から特許状を得たマサチューセッツ湾植民地会社が入植者を送り、マサチューセッツ湾植民地を建設した。1年間に1000人、10年間で2万人が移住した。入植者の多くはピューリタン(プリマスのピューリタンは国教会からの分離を主張する分離派であったが、この地のピューリタンは国教会の内部にとどまって改革をめざしていた)であった。
 13植民地の最も北に位置しているこの地は、ボストンを中心に漁業と造船が発達し、ニューイングランド地方の中心部として発展した。1691年にはピルグリム・ファーザーズがつくったプリマス植民地を併合した。なお、マサチューセッツは、王領植民地として出発したが、1774年から総督と議員は住民による選挙が認められ、半自治植民地となった。

マサチューセッツと日本人

 1853年のペリー来航による日本の開国(1854年)よりも10年以上前、一人の日本人の姿がアメリカ東海岸、マサチューセッツにあった。それがジョン万次郎こと中浜万次郎だった。万次郎は土佐国幡多郡中ノ浜の漁師だった1841年1月5日、14歳の時に宇佐浦から4人の漁師とともに近海のハエナワ漁に出て嵐に合い、漂流して無人島の鳥島に流された。およそ半年後に近くを通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、12月にハワイのホノルルに入港した。他の4人はホノルルに残るが、万次郎はウィリアム・ホイットフィールド船長とともに捕鯨船の母港であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードに向かい、1843年5月に帰港した。ニューベットフォードは当時、捕鯨の拠点港の一つとして繁栄していた。万次郎は隣のフェアヘブンで読み書き、算術、測量術などを学び、1851年に帰国した。フェアヘブン、ニューベッドフードと高知県土佐清水市は姉妹都市となり、「ジョン万次郎フェスティバル」を隔年で開催している。<ジェームス・バーダマン/森本豊富訳『地図で読むアメリカ』2020 朝日新聞出版 p.52>

捕鯨業と奴隷解放運動

 ジョン万次郎が連れて行かれたマサチューセッツ州ニューベッドフォードは捕鯨産業の拠点であると共に、黒人奴隷解放での地下鉄道運動の拠点でもあった。捕鯨業と奴隷解放運動のつながりは、次のように説明されている。
 19世紀初頭、アメリカの船舶輸送は活発化し、毎年約10万人を雇用していたが、そのうち黒人が5分の1を占め、大西洋各地の港では黒人は目立った存在だった。船員の労働条件は劣悪で、募集が困難だったので波止場で働けそうな男が誘拐され乗船させられることも多かった。しかし、船舶は黒人にとっては開かれた雇用先だった。このような状況は、捕鯨船が時として「奴隷密輸船」に早変わりする可能性を意味していた。捕鯨船の船長が寄港先で奴隷を下船させ、奴隷商人に売却することがあったのである。少し時代が遡るが、大西洋で海賊が活躍していた時代に、奴隷・自由人を問わず多くの黒人が「海賊」として活躍していた。
 19世紀の中頃、アメリカでの黒人奴隷解放の運動が盛んになると、逃亡奴隷の中には、西海岸の港から捕鯨船に乗って逃亡する者もいた。捕鯨業の担い手にはクェーカー教徒が多く、そのなかには奴隷制に批判的なものも多数おり、奴隷を船長として受け入れたり、逃亡を助けたりする事例が多かった。アメリカの基幹産業の一つだった捕鯨業は恒常的に労働力不足であったため、逃亡奴隷が捕鯨船に逃げこむことが多くなった。南部のプランテーションを脱走した黒人奴隷の逃亡を助ける組織が秘かに作られ「地下鉄道運動」と言われるようになり、自ら逃亡奴隷だったハリエット=タブマンらが活動して、カナダまで送り届けた。マサチューセッツ州ニューベッドフォードがその拠点の一つとなったのは、捕鯨業の基地だったからであった。<上杉忍『ハリエット・タブマン』2019 新曜社 p.100-101>
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