ペンシルヴェニア
アメリカ東部の一州で、ペンが国王から特許状を得て建設した領主植民地が起源。ウィリアム=ペンに率いられたクエーカー教徒が入植し、都市フィラデルフィアを中心に農業、商業、工業が発達、独立13州の一つとなり、アメリカ合衆国を構成した。
ペンシルヴァニア GoogleMap
州最大の都市フィラデルフィアはアメリカ合衆国の独立革命の原点であり、1776年、独立ホール(当時の州議会議事堂)で独立宣言が採択された。その時、打ち鳴らされた「自由の鐘」は今も町に飾られている。その後、1790年から1800年までの10年間はアメリカ合衆国の首都であった。現在は州都は西のハリスバーグに移っている。州の西端には鉄鋼業で栄えたピッツバーグがある。かつてカーネギー財閥とメロン財閥の本拠地として栄えたが、長びく鉄鋼不況によって衰えた「ラストベルト(Rust Belt 錆び付いた地帯の意味)」の象徴とも見られるようになった。現在は脱工業化が進んでいる。歴史上の重要地名としては南北戦争の激戦地、1863年7月のゲティスバーグの戦いがあったのがペンシフヴェニア州の中央、ハリスバーグの南方である。その年11月にはリンカンが有名な演説を行った。現代では1979年3月に原発事故の起こったスリーマイル島(ハリスバーグ南方のサスケハナ川にある島)も忘れてはならない。<浅井信雄『アメリカ50州を読む地図』1994 新潮文庫 p.237->
クェーカー教徒
ウィリアム=ペン William Penn(1644~1718)は有名な海軍提督の息子で名門の子弟であったが、23歳の時にクェーカーの信仰に入り、1668年に国教会を批判するパンフレットを書いて捕らえられ、ロンドン塔に幽閉された。1681年、1万ポンド以上の父の債権と引き替えにチャールズ2世からアメリカ大陸に領主植民地をつくる特許状を得て、そこにクェーカーの新天地ペンシルヴェニアを建設したのだった。1682年11月、総督として新天地に到着すると、デラウェア川のほとりでインディアンの首長と会見し、友愛をもって共存すること、武器を取って争わないという条約を結び、事実ペンシルヴェニアではその後もクェーカーの血は一滴も流されなかった。
なお、クェーカーは別名フレンズ派とも言い、その後も徹底した平和主義を貫いた。たとえ徴兵されても絶対に武器を取らないとう姿勢は、多くの苦難を浴びることとなったが、1947年にはノーベル平和賞を受賞している。<中屋健一編『世界の歴史』11 1961 中央公論社旧版 p.25-29>
イギリスのクェーカー教徒は、18世紀後半に盛んになった黒人奴隷貿易禁止運動を起こし、1807年にそれを実現させた。現在でも世界に約60万、アメリカ合衆国に12万、イギリスに4万の信者がいる。日本人では国際連盟の事務局次長を務め、『武士道』などの著作でも知られる新渡戸稲造が知られている。
参考 ヴォルテールのクェーカー評
クェーカー教徒とは、17世紀中頃、イギリスでジョージ=フォックスによって興されたキリスト教の一派。人は心に神の直接の啓示を受けることができると説いた。クェーカーとは英語で「体をふるわせる者」という意味で、神の啓示を受けるとき、彼らはしばしばこの状態になった。ヴォルテールは『哲学書簡』(1734)の冒頭の数章と、『寛容論』(1763)でこの一派を好意的に紹介している。(『カラス事件』訳註による)(引用)人びとが馬鹿にして「クェーカー」と呼んでいる未開人、その風習はいかにも馬鹿げているかも知れぬが、徳義心に厚く、効果はあがらなかったがその他の人びとに平和を説いたやぼな未開人、彼らについてわれわれは何と言ったらよいであろう。ペンシルヴェニアで彼らの数は、一〇万に達している。自分らのために建設した楽土で、彼らは仲違いも論争も知らずにいる。そして人類が兄弟である事実をたえず彼らに想い起こさせる。フィラデルフィアという彼らの都市の名前(註、ギリシア語で「兄弟愛」の意)、この一事だけでもまだ寛容の何たるかを解さぬ民族にとって、それは戒めともなり、また面目ないという気持ちを起こさせる次第である。<ヴォルテール/中川信訳『寛容論』2011 中公文庫 p.44>
クェーカー教徒の信仰
クェーカーの大規模な移動は、1675年から1725の間に起こった。この時期に、じつに2万3千人ものクェーカー教徒がリーダーのウィリアム・ペンに従い、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、北メリーランド、北デラウェアへと移住してきた。この移民団の大部分はイギリスの北ミッドランド地方のチェシャー、ランカシャー、ダービーシャー、ノッティンガムシャーなどからやってきた。彼らはイギリス国教会など他宗派との紛争の起きない場所で、自分たちの宗教的信条を実践しようとした。(引用)クェーカーはシンプルで、禁欲的な生活を理想としていた。たとえば、食事や飲み物は楽しみのためにあるのではなく、肉体を維持するためにこそ必要だとされていた。粗食が一番だと信じられ、同様になにごとにも節度をわきまえるといった態度が形成されていった。彼らは何らかの「社会悪に染まっている」とされる食事は決して摂らなかった。たとえば、「砂糖は奴隷労働者によって作られているので使わない」という者もいたし、「塩はそれにかけられている税金が軍事行動に使われている」という理由で拒絶する者もいたのである。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.28>
他の入植者集団との違い
同じプロテスタントでイギリス国教会による弾圧を避けてアメリカ新大陸に移住した人びとにピューリタン(清教徒)がいるが、クェーカー教徒は彼らとは信仰が違う。またピューリタンはニューイングランドに入植し、ピューリタンはペンシルヴェニアなどデラウェア峡谷沿いに入植した。またニューイングランドのピューリタン入植者集団は中流階級の出身者であったが、クェーカーはそれより低く、中の下に位置していた。ピューリタンは自分たちより貧しい階級の者を共同体から排除したが、ピューリタンは貧困階級を受け入れた。彼らの平等主義は長く維持され、慈善活動にも力を入れた。それは彼らの、すべての人間は神のもとに平等であり、またすべての人間はキリストから受ける「内なる光」を共有しているという信念に基づいていた。その精神は彼らの他宗派に対する寛容さにも現れている。
Episode 「サー」「マダム」とは呼ばない
(引用)蛇足になるが、クェーカーたちは日常生活において、現世的な階級制度に敬意を表した呼び方、たとえば「サー」「マダム」「閣下(Your Honor)」などで他人を呼ぶことを拒んだことで知られている。それは、個々人は目に見えるような社会的地位によってではなく、いかに有徳な行為をしたかによって認められるべきである、といった信念からである。さらに、クェーカーは、地主や州長官、富豪といった社会的地位を持った人に出会った際に、帽子を脱いで敬意を表すといったことも拒絶した。そのかわりに、日常的な握手は誰とでも交わした。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.33>