三権分立
18世紀啓蒙思想家のモンテスキューによって提唱され、1787年のアメリカ合衆国憲法で実現した、国家権力の集中を防ぐための措置。近代国家の原理として広く定着している。
国家の最高権力を、一人に集中させず、立法権・司法権・行政権の三権に分け、それぞれを別個の機関にゆだねて互いに監視、牽制しあう政治システム。一般に立法権は議会(国会)、司法権は裁判所、行政権は政府に付与される。このような形態はまずイギリス革命の中で絶対王政の王権制限として始まり(完全な三権分立とは言えないが)、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが『法の精神』で体系化した。1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法はそれを国家の主要形態として採用した最初のものである。フランスでは1791年憲法が最初であった。その後、さまざまな国々での専制政治や独裁政治の出現がありながらも、20世紀までにほぼ近代的な国家システムとして採用されている。
モンテスキューの三権分立論
モンテスキューが『法の精神』(1748年)で「すべて権力をもつ者はそれを濫用しがちである。彼は極限までその権力を用いる。権力の濫用をなしえぬようにするためには、権力が権力を抑制するよう事物を按配することが必要である」と述べている。その考えにもとづき、モンテスキューは権力を抑制するしくみとして「立法権」、「万民法に関する事項の執行権」、そして「市民法に関する事項の執行権」という3つの権力をそれぞれ異なった機関に分担させることを説いた。「万民法に関する事項の執行権」が今日の行政権にあたり、「市民法に関する事項の執行権」が裁判所にあたる。ただし、モンテスキューにおいては、立法権は人民の代表と貴族の代表の双方に与えられるべきであるとされ、二院制議会が想定されていた。それはモンテスキュー自身が法服貴族の出身であり、イギリスの二院制を参考にしたからであった。モンテスキューよりも先にロックも権力分立を説いていたが、ロックの場合はあくまで議会優位で議会を最高権力と位置づけていたのに対し、モンテスキューは三権には優劣なく相互を監視する役割が与えられた。モンテスキューの三権分立論が後世にに広く受けいれられたのは、特定の国の制度を理想としたのではなく、抽象的・観念的に、つまり普遍性を持ったものとして論じたからであった。<浦部法穂『世界史の中の憲法』2008 共栄書房 p.75-81>イギリスには三権分立はなかった
モンテスキューはイギリスでその政治制度を観察し、二院制の議会政治を理想と考えたが、そのイギリスには三権分立は成立していなかった。イギリスでは最高裁判所の役割を果たしていたのは上院(貴族院)であり、貴族院の中に常任上訴担当貴族がおかれ、貴族院議長は大法官(Lord Chancellor)と呼ばれる大臣と最高司法官を兼ねる役職だった。イギリスで最高裁判所が貴族院から切り離されたのはなんと2005年のことである。<浦部『上書』 p.78>フランスの三権分立
フランスで最初に三権分立を具現化したのは1791年憲法であった。立法権は国民議会に、行政権(執行権)は国王に、司法権は民選の裁判官に付与され、モンテスキューの説く典型的な三権分立だった。最も念頭に置かれたのは国王権力の抑制であった。ついでジャコバン憲法とも言われる1793年憲法が制定されたが、これは人民主権を優先し、議会への権力集中をはかっていた。しかしこの憲法は施行されることはなく、1795年憲法で共和制が初めて規定されると共に、三権分立が復活した。しかし議会は制限選挙の二院で、民衆の政治参加を制限しようという有産市民の意図が働いていた。<浦部『上書』 p.83->アメリカの三権分立
1787年に憲法制定会議で採択され、1788年6月21日に発効したアメリカ合衆国憲法は、立法権を連邦議会、行政権(執行権)を大統領、司法権を裁判所に与え、最も厳格な三権部立を採用した。三権が完全に分離していることが特徴であり、特に行政権の担当者である大統領は議会に出席することさえできず、法案提出権もない。また議会は大統領を辞めさせることはできない(上院が大統領弾劾裁判権をもつが弾劾は犯罪行為などに限られている)。このように立法権と執行権を完全に分離しているが、議会に優越的な権限を与えることは避けられ、大統領には拒否権が認められている。また、憲法の規定にはないが、裁判の判例が積み重ねられる過程で、アメリカでは裁判所が違憲立法審査権をもつことが定着し、裁判所が議会を牽制する働きを有している。それは1801年の連邦派と反連邦派(共和派)の対立からおこったマーベリー対マディソン事件から明確になった。<浦部『上書』 p.87->