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連邦主義

アメリカ合衆国憲法の理念の一つで、連邦政府のもとで各州に自治権を与えたこと。各州に大幅な父権を与えながら、中央政府の権限もできるだけ強くする政治姿勢を云う。州権主義に対しては、中央集権主義とされる。

 アメリカ合衆国の憲法制定過程で、統一的な憲法の下で中央集権的な連邦政府をつくるべきであるという連邦派(フェデラリスト)と、連邦政府の権限は制限して州の自治権を最大限認めるべきであるとする反連邦派(アンチ=フェデラリスト)が鋭く対立したが、1787年に制定されたアメリカ合衆国憲法では、両派の妥協が成立、一定の州の自治権を認めるものの、かなり強い権限をもった中央政府として連邦政府を発足させることとなった。その後も憲法の解釈をめぐって、連邦政府の権限を広く解釈する連邦主義と、それをできるだけ狭く、厳格に解釈して、州の権限を広く解釈する州権主義の対立が続いた。

アメリカ合衆国憲法で定める州の権限

 アメリカ合衆国憲法第1章第10節に定められた、州の権限についての規定は次のようになっている。
①各州は条約・同盟の締結、貨幣の鋳造、貴族の称号の授与などはできない。
②各州は独自に輸出入に課税できない。
③各州は平時において軍備を保ち、侵略された場合以外に戦争行為をすることはできない。
このように州は外交権、貨幣鋳造権、輸出入への課税権、戦争行為などが否定されており、その権限は主権国家からはほど遠いものとなっている。 → アメリカ連邦政府

連邦主義の展開

 1789年の初代ワシントン大統領はハミルトンらの連邦派、ジェファソンらの反連邦派の両派のバランスを取って中立的であったが、次のジョン=アダムズ大統領は連邦派の結成した連邦党の支持を受けたので、連邦主義的な政策がとられた。それは合衆国銀行(中央銀行)の設立などの経済政策にも現れている。ところが、1800年の選挙でジェファソンが当選、その支持政党であるリパブリカン党は州権主義の性格が強かった。この交替で連邦党は急速に衰えた。
 しかし、米英戦争や領土の拡張という新しい事態の中で、次の大統領が連邦主義的な政策をとらざるを得なくなるとリパブリカン党も分裂して弱体化、その間隙を縫って西部農民の支持を受けたジャクソンが台頭、1828年の選挙で大勝した。ジャクソンを支持した人々はリパブリカン党の本来の主張を継承した人々であったが、1832年から民主党を名のるようになった。連邦主義的な主張は、反ジャクソン派が結成したホイッグ党に継承された。ジャクソン大統領は、連邦主義には否定的であったと言うことができ、たとえば連邦主義のハミルトンによって設立された合衆国銀行は廃止されている。
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