ホイッグ党(アメリカ)
アメリカ合衆国でジャクソン大統領の独裁的手法に反発し、1834年頃結成された政党。40年代にタイラーやフィルモアなどの大統領を出したが、奴隷制度に対する対応で分裂し、1854年に結成された共和党に吸収された。
ジャクソン政権が絶大な国民的支持で強大になったことに対し、その政権独占を批判した人々が結集して、ナショナル・リパブリカン党(国民共和党)と称し、1832年の大統領選挙ではヘンリー=クレイを候補者として大統領選挙に臨み、かつてのフェデラリストに近い保護主義、連邦政府の強化、合衆国銀行の復活、最高裁判所や上院の権威の維持といった主張を掲げたが、ふたたびジャクソンの民主党に敗れてしまった。
アメリカのホイッグ党は1834年頃に政党活動を開始したが、イギリスの「ホイッグ党」は1830年頃から自由党と称するようになっている。
当初ホイッグ党の中心であったのはジョン=クィンシー=アダムズ(第6代大統領)、クレイ(1820年のミズーリ協定成立に尽力した)などで、ジャクソン派の西部の農民を基盤とした政権運営に批判的な東北部工業地帯と南部の綿花プランターの利益をともに図る「アメリカ体制」を主張した。
ホイッグ党フィルモア大統領は、1850年にカリフォルニアを自由州として州に昇格させる見返りに、逃亡奴隷法を認め(1850年の妥協。逃亡奴隷をもとの所有者に返還することを認めた)、それに反対するストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表されるなど、激しい黒人奴隷解放運動が起き、ホイッグ党もその対応をめぐって奴隷制拡大反対派と維持容認派に分裂してしまった。
1853年には政権を民主党ピアースに明け渡したが、そのピアース大統領のもとでカンザス・ネブラスカ法が制定され、奴隷州拡大を制限していたミズーリ協定が否定されたことから、奴隷制拡大反対派は危機感を強め、1854年に共和党を結成、ホイッグ党の奴隷制拡大反対派はそれに吸収されて消滅した。ホイッグ党員であったリンカンも共和党に転じ、そのリーダーとなっていく。
反ジャクソン派
ジャクソン支持者の民主党は、その名の通り民主主義をかかげ、大きな動員力を発揮したが、反ジャクソン派は専制政治に対する抵抗という共和主義の論理を掲げた。彼らは、ジャクソンは権力を濫用し専制をふるう暴君であるとして「アンドルー1世」と揶揄し、自分たちはそれに抵抗する「ホイッグ」と称した。ホイッグは、17~19世紀初頭に、イギリスで王権に対する抵抗を掲げたホィッグ党(自由党の前身)と同じ立場であるところから自ら名づけた。岡山裕『アメリカの政党政治』2020 中公新書 p.63アメリカのホイッグ党は1834年頃に政党活動を開始したが、イギリスの「ホイッグ党」は1830年頃から自由党と称するようになっている。
当初ホイッグ党の中心であったのはジョン=クィンシー=アダムズ(第6代大統領)、クレイ(1820年のミズーリ協定成立に尽力した)などで、ジャクソン派の西部の農民を基盤とした政権運営に批判的な東北部工業地帯と南部の綿花プランターの利益をともに図る「アメリカ体制」を主張した。
1840年代の二大政党
1830年代はジャクソン(在任1829~1837)~ヴァン=ビューレン(在任1837~1841)大統領と民主党政権が続き、ホイッグ党は野党に甘んじていたが、1840年代にはいずれも軍人として人気のたかった人物をかついで二度に渡り政権を握った。しかしそのいずれも途中で病死し副大統領が昇格するという事態が続いた。1840年代は、アメリカの政党政治の歴史の中で第二次にあたり、二大政党制が最初に定着した時期とされている。<岡山裕『前掲書』.64-65>- 第9代ハリソン(在任1841):インディアン討伐や米英戦争で軍人として活躍して人気の高かく、開拓間もない中西部で長く過ごし、「丸太小屋とハード・サイダー(リンゴ酒)」をスローガンにして売り出し、民主党ヴァン=ビューレンを破って当選した。ホイッグ党として初めて政権の座についたが、就任1ヶ月で病死した。
- 第10代タイラー(在任1841~45年):副大統領から昇格。1844年、清朝との間で望厦条約を締結。テキサス独立をめぐって党内対立が表面化し、1844年大統領選挙では民主党に敗北、ポーク大統領に交替した。
- 民主党ポーク政権が強行したアメリカ=メキシコ戦争には、当時ホイッグ党の若手代議士だったリンカンが反対の論陣を張った。
- 第12代テーラー(在任1849~50年):アメリカ=メキシコ戦争で活躍した将軍で1848年の選挙で当選したが、1年で病死。
- 第13代フィルモア(在任1850~53年):副大統領から昇格。1853年、ペリーを派遣して日本の開国をさせた。
黒人奴隷制問題で分裂
ホイッグ党が政権獲得のために大統領候補として軍人の人気に依存するうちに、党の政策を明白することを避けていた。その間、民主党は自己の主張を次第に明細にしつつあった。<ビアード『アメリカ政党史』斉藤眞、有賀貞訳著 p.81>ホイッグ党フィルモア大統領は、1850年にカリフォルニアを自由州として州に昇格させる見返りに、逃亡奴隷法を認め(1850年の妥協。逃亡奴隷をもとの所有者に返還することを認めた)、それに反対するストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表されるなど、激しい黒人奴隷解放運動が起き、ホイッグ党もその対応をめぐって奴隷制拡大反対派と維持容認派に分裂してしまった。
1853年には政権を民主党ピアースに明け渡したが、そのピアース大統領のもとでカンザス・ネブラスカ法が制定され、奴隷州拡大を制限していたミズーリ協定が否定されたことから、奴隷制拡大反対派は危機感を強め、1854年に共和党を結成、ホイッグ党の奴隷制拡大反対派はそれに吸収されて消滅した。ホイッグ党員であったリンカンも共和党に転じ、そのリーダーとなっていく。