エクアドル
ラテンアメリカ諸国の一つで南米大陸の赤道直下にあり、1830年、大コロンビアから分離独立した。
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エクアドルの独立
19世紀初頭のラテンアメリカの独立の動きの中で、シモン=ボリバルの指導で独立した大コロンビアに属したが、1830年に分離して独立した。国名のエクアドル Ecuador は「赤道」Equator を意味するスペイン語に由来する。またダーウィンが調査し、進化論を構想する契機となったガラパゴス諸島はエクアドルに属している。国号をエクアドルとした理由 エクアドルの独立は他のラテンアメリカ諸国と同じようにクリオーリョが主導権を握っていた。彼らは主要な港で最大の都市であるグアヤキルでのカカオ輸出で富裕層を形成していた。一方で植民地行政の中心地キトを中心とした山岳地方ではメスティーソが次第に力を付けていった。キトとグアヤキルの地域対立があったため、国号を決めるとき、どちらでもない赤道を意味する「エクアドル」が選ばれたのだった。
国旗 黄色・青・赤の横三色旗はコロンビア・ベネズエラと同様、大コロンビアの国旗を継承している。1806年、最初にベネズエラで蜂起したミランダが考案したもので、赤はスペインの暴虐を表し、青で示される大西洋を越えて、金で示される黄金の理想郷が樹立されることを意味している。中央の国章にはエクアドルの山と川、海が描かれ、港には南米大陸西岸で最初に建造された蒸気船が描かれている。
エクアドルの国民統合
エクアドルでは地域的な対立に加え、またカトリック教会に対しても、その伝統的な権威を維持を図る勢力と、反発して排除しようとする勢力が対立し、政治的な不安定が続いた。そのような内部対立を越えて、エクアドルの国民意識が生まれたのは、1941年に南に接するペルーとの間で国境問題が起こり、ペルー軍が侵攻したことであった。この戦争でエクアドルは内陸のアマゾン地方の多くを失ったが、国民的統合の契機となった。そのような機運のなかで1944年にベラスコ=イバラ大統領は保守党でありながら労働者保護政策などを進めるポピュリズム(スペイン語ではポプリスモ)政治家として、断続的に権力を72年まで維持した。第二次世界大戦後は、バナナがエクアドルの最大の輸出品となり、経済を支えることになった。軍政と民政移行
1972年にエクアドルでもクーデターが起こりロドリゲス将軍による軍事政権が生まれたが、この場合は左派的な姿勢をとり、当時外国資本で開発が進められていた石油の国有化と石油輸出国機構への参加、キューバへの接近、国内では農地改革などの政策を採ったため、アメリカとの関係の悪化、保守的な地主層の反発などで行き詰まり、79年に民政に移管した。民政移行後は、軍政時代の負債を返済するため国際通貨基金(IMF)から融資を受け、アメリカとの自由貿易協定を結び、2000年には通貨を米ドルに替えることまで踏み切った。しかしそのため物価が上昇し、所得格差が広がったため、貧困層はデモで激しく抗議、大統領がひんぱんに交替するという混乱に陥った。
2006年以降の変化
そのような中、ラテンアメリカ諸国で左派政権が一斉に登場した2006年に、エクアドルでも中道左派のコレア大統領が就任した。その対立候補は「バナナ王」と呼ばれた右派の大富豪だった。<伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p.24>コレア大統領はベネズエラのチャベス大統領と連携し、反米姿勢と新自由主義経済との決別を明確にした。2009年には得票率50%で再任され、憲法を改正して両性の完全な平等、多民族の平等などを掲げた。貧困層の支持を受けて2013年にも大統領に再選されたが、次第に強権的になり、憲法で禁止されている大統領3選をめざして憲法を改正る姿勢を見せた。それにたいして労働者、先住民の支持も離れ、2017年大統領選挙には出馬せず、次期大統領にはモレノが選出された。モレノ大統領は、コレアの外交政策を反米から親米に転換、コレア前政権の腐敗の追及などが始まっている。