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チャベス

現代のベネズエラ大統領(1998~2013)。「貧者の救済」を掲げて大統領に選出され、石油国有化による社会保障の充実などで国民的支持を強め、また強烈な反米姿勢を打ち出した。CIAによるクーデターなどをはねのけて強固な権力を築き、憲法改正で大統領任期延長を図ったが、2013年に病死した。

チャベス大統領
国連で演説するチャベス大統領

国連でアメリカ大統領を「悪魔」と叫ぶ

 2006年9月20日、ウーゴ=チャベスは、ベネズエラ大統領として国連総会で演説し、「悪魔が昨日、ここに来た。この演台は、まだ硫黄のにおいがする」と述べ、祈るように十字を切り、両手を合わせて天を見上げた。そして前日に登壇したアメリカ大統領ブッシュ(子)をさして8回も「悪魔」と叫び、予定された15分を9分超えて演説し、終わると各国国連大使から長い拍手が送られた。
 → 2006.9.20 チャベス大統領の国連演説

ベネズエラの状況

 ベネズエラは20世紀初頭以来、産油国として比較的豊かな国であったが、第二次世界大戦後は石油利権はアメリカ資本と結んだ少数の特権階級に握られ、貧富の差が拡大していた。政治の面でもアメリカに従属して特権階級の利益を守るための反民主的な独裁政権が交互に生まれる状態が続いていた。しかも80年代にはアメリカの指導による新自由主義経済政策が導入され、小さな政府の実現の名の下に民営化、規制緩和、リストラ、外資導入が進められたため、貧富の格差はますます拡大していった。1989年には首都カラカスで貧困層による大規模な暴動が起こったが、それが軍隊によって鎮圧され、約千名が銃殺されるという悲劇が起こった。

ベネズエラ大統領に当選

 チャベスは陸軍中佐として鎮圧する側であったが、兵士が自国民を殺害することに衝撃を受けた。また兵士も貧困層の出身者であったので、軍は次第に政府の方針に不信を持つようになった。反政府活動を決意したチャベスは1992年にクーデターを決行したが失敗し、逮捕された。しかし大衆的な釈放運動がおこり、間もなく釈放され、チャベスは軍事的方針から言論と選挙戦術に転換、1998年の大統領選挙に立候補した。「貧者の救済」を掲げたチャベスは圧勝し、「民主的革命」の開始を宣言、石油の富を国民に平等に分配するために国家のしくみを変えることを打ち出した。

ベネズエラ=ボリバル共和国へ

 チャベス自身、父親はムラート、母親はメスティーソであったので、まず先住民の権利を認め、それまで石油資本が実質的に握っていた権力を奪うために大統領権限を強化し、さらに国名をラテンアメリカ解放の指導者シモン=ボリバルからとって「ベネズエラ=ボリバル共和国」に変更した。
 2000年、新憲法による大統領選挙で再選され、国家収入の7割を占める石油の収入を貧困解決に向け、スラムの解消、学校の建設、無料の治療、大地主の遊休地を接収して農民に分配、失業者に対する職業訓練、協同組合方式による企業設立など矢継ぎ早に施策を実施して国民的な人気を高めた。

CIAのチャベス排除失敗

 アメリカと結びつき、利権を独占していた石油資本側は、チャベスを排除しようとし、2002年にCIAの資金と指導によるクーデターを起こした。チャベスは軟禁されクーデターは成功したかに見えたが、一斉に市民による抗議行動が起こり、軍内部にもクーデターに同調しない者もあったためチャベスは救出され、クーデターは2日で失敗に終わった。中南米諸国が一斉にクーデターを認めない声明を出したことも効果があった。

反米姿勢を鮮明に

 チャベスがアメリカ大統領を「悪魔」と叫んだことの背景にはCIAによる介入が露骨であったことがある。このクーデター失敗によりチャベスの反米姿勢はエスカレートし、キューバのカストロ議長との友好関係を強め、ラテンアメリカからのアメリカの排除をめざして米州ボリバル代替構想(ALBA)を結成した。国営石油会社はチャベス政権を支える基盤となり、その利益は貧困層のための格安スーパー「人民の店」や、無料で食べ物を提供する「人民食堂」の建設に回された。イラク戦争で石油の国際価格が上昇したこともチャベスに有利にはたらいた。

チャベスに始まる「反米大陸」化

 ベネズエラにおけるチャベス政権の登場、そのアメリカと新自由主義に反発する姿勢とともに、2000年代の初めに急速に中南米に広がった。2002年にはブラジル連邦共和国に左派労働党のルーラ大統領が当選、農地改革を開始した。アルゼンチンでは2003年に左派のキルチネル政権が誕生、前政権が2001年末の経済危機に際してIMF融資条件を満たすために緊縮財政、銀行預金の引き出し制限などを強行したことによって混乱に陥っていた経済の立て直しに取り組己を開始した。2005年にはウルグアイで歴史上最初の左派政権バスケス大統領が登場し、2006年にはボリビアで社会主義運動党のモラレスが大統領に就任(初めての先住民出身)して反米を明確にし、その一週間後にはチリの大統領選挙で与党の統一候補、社会党のパチュレが当選した。チリ史上最初の女性大統領であり、1973年の軍部クーデターで逮捕投獄された経験を持つ。さらにペルーでは中道左派のガルシア大統領に返り咲いた。エクアドルでも反米左派のコレアが、「バナナ王」と言われた富豪を破って大統領に当選した。また、2006年11月にはニカラグアの大統領選挙で、80年代に左翼革命政権を担っていたオルテガが16年ぶりに政権を奪還した。そのような中でチャベス自身も同年に参戦を果たした。 → 2006年のラテンアメリカ諸国 <以上、伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 などによる>

チャベスの死と死後の評価

 2006年の大統領選挙に三選されたチャベスは、反米姿勢を強め、2012年に南米南部共同市場(メルコスル)に正式加盟した。
 チャベスは権力の維持を目指し、大統領任期を無期限とする憲法の改正をめざしたが、それに対しては国民の批判も強く、野党の批判もあったため否決されていた。しかし、2009年に実施された国民投票では、チャベスの提案した憲法改正が承認され、大統領の多選が妨げられないこととなった。こうして1998年からの長期政権が続くかと思われたが、2013年に癌を発病していることが判明し、キューバで治療に当たったが、3月5日に急逝した。
急落したチャベスの評価 反米と社会主義を掲げた革命政権として登場したチャベスであったが、その評価は、その末期から急激に低下した。それは憲法改正によって任期を強引を引き延ばし、無期限も可能にしたような姿勢に対する批判が強まったためであった。原油価格の下落により経済が悪化し、その富を国民に分配することで成り立っていた政権の支持基盤がくずれたことも大きな要因であろう。おまけにその後継に指名されたマドゥロは不正な選挙によって大統領になり、反対派を厳しく弾圧している。このような強権的体質はチャベスを引き継いだもので、ベネズエラの独裁政権に対する評価は一気に低落し、国際的な信頼も最悪の状態となっている。おそらくチャベスの名も今後、教科書に載ることはないだろう。
 高い理想を持ち、民衆から支持されて革命を成功させた政権が、一旦権力を握ると独裁的になり、腐敗し堕落する、という現象はラテンアメリカ以外にもよく見られる。それを民主主義の未熟さ、経済の貧しさとかたずけるのは簡単だが、結局そのような独裁政治が長く続くことはなかったことも事実だ。ベネズエラ国民自身の手で克服することを願わずにはいられない。

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書籍案内

伊藤千尋
『反米大陸』
2007 集英社新書

この書は21世紀初頭に出版され、チャベスを高く評価する立場で書かれている。現代史を書く難しさを示している本なので、あえて紹介しておきます。