ルイ=フィリップ
ブルボン家の分家オルレアン家出身で、1830年に七月革命によって国王に即位した。その七月王政はブルジョワジーの利益を最優先するものだった。1848年、二月革命が起こり、イギリスに亡命した。
七月革命
七月革命が起こると、銀行家ラフィトらはブルボン家のオルレアン公ルイ=フィリップを国王に推挙、共和派はラ=ファイエットを大統領とする共和政を主張したが、ラ=ファイエットはフランス革命の時のように共和政のもとでジャコバン化することを恐れて、君主制がいちばん良いのだ、といって逃げた。ルイ=フィリップは「ブルボンを倒せ!」という市民の声に対して、市庁の広間で三色旗につつまれ、ラ=ファイエットとだきあってみせ、8月1日には人民主権・上院廃止・行政粛正等とともに、「共和的な制度につつまれた民衆的玉座」を約束。2日、シャルル10世は退位を宣言してイギリスに渡り、9日ルイ=フィリップはブルボン宮で「フランス人の王」となった。14日には憲法を制定、七月王政が始まった。国王ルイ=フィリップとしての統治はもっぱら銀行家などの上層ブルジョアジーの利益の保護にあたり、「株屋の王」と揶揄された。
七月王政
七月王政の時期は、フランスの産業革命が急速に信仰した時期であった。ルイ=フィリップも銀行家や産業資本家の利益保護を第一に掲げ、同時に海外への進出を図ったが、国内の貧富の差の拡大、労働者・農民の不満が次第に高まり、特に普通選挙の実現を求める政治運動の高まりへと結びついていった。ヨーロッパ全体でも、ウィーン体制のもとで自由主義とナショナリズムが抑圧されていたが、各地で民衆蜂起が相次ぎ、次第にその矛盾は深まっていった。フランスにおいては国王ルイ=フィリップのもとでギゾー内閣は選挙法改正運動を厳しく弾圧し、民衆の反発が次第に強まり、改革派はさかんに改革宴会を開催し、ルイ=ブランなどの社会主義者も政府批判を強めていった。ついに、1848年、二月革命が勃発し、民衆が蜂起、ギゾー内閣は瓦解して、国王ルイ=フィリップは退位してイギリスに亡命した。フランスは臨時政府のもとで第二共和政へと移行した。
Episode 「梨王」ルイ=フィリップ
ルイ=フィリップには「株屋の王」の他にも、「梨王」と渾名された。それは彼の風貌が梨(日本でいう洋梨)にそっくりだったから。このころ石版画による絵入りの新聞や雑誌が刊行されるようになり、盛んに風刺画の対象とされた。とくに、ドーミエは次々とルイ=フィリップを揶揄する絵を発表し、たびたび罰金刑に処せられた。右がその一つで、ドーミエが諷刺雑誌『シャリヴァリ』に発表したもの。<井上幸治『ブルジョワの世紀』世界の歴史12 中央公論社 p.313>1848年2月24日、武装した市民がテュイルリー宮殿前で守備兵に阻止されているあいだに、「市民王」ルイ=フィリップは王宮から脱出を図った。王は妃のたすけをかりて重い軍服を脱ぎ、せきたてられて、フロックコートとシルクハットをつける。折りかばんに鍵をかけ、「時計!時計!ああ、自分で持っていた」というあわてかただった。王妃は「裏切り!、裏切り!」と、自分にいいきかせるように、つぶやいていた。コンコルド広場まで、王家の一同は歩いていったが、手配した御者は銃弾にたおれて来ていなかった。さいわい、そまつな二台の馬車があったので、一行はサン・クルーへ脱出した。<井上幸治『同上書』 p.351>
こうして、市民にとって“用なし”になった王は、ロンドンに亡命した。