穀物法
1815年、イギリス議会が地主を保護するために制定した穀物の輸入を制限する法律。穀物価格の騰貴を招き、労働者・産業資本家に反対運動が強まり、1846年に廃止される。
穀物法 Corn Law は1815年、地主や農業資本家が多数を占める議会で成立した。イギリスでは、ナポレオン戦争後、平和を回復したヨーロッパからの穀物輸入が増えたため、穀物価格が下落し、農業不況の様相となった。そのため、時のトーリ党(保守党)政府は「小麦価格が1クォーター80シリング以下の時は小麦の輸入を禁止する」という穀物法を制定した。これは地主や農業資本家の利益を守るねらいから定められた保護貿易政策であり、そのため穀物価格は高くなって消費者である都市住民、労働者が反発し、1819年にはマンチェスターで8万人の労働者が集まって選挙法改正とともに穀物法反対を訴える大集会を開いて、官憲から弾圧されるというピータールー事件が起こった。
1840年代には物価騰貴・食糧不足は深刻となったため、労働者の中にも政治要求が高まり、1842年にはチャーティスト運動が盛り上がった。さらに1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉がおこるなど、深刻な事態が続いたため、ようやく1846年に議会が穀物法の廃止を成立させるに至る。
産業資本家の反発
一方、産業革命を経て形成された産業資本家の中には自由貿易主義を主張する声も強くなった。穀物法で輸入が制限されると、貿易も停滞して工業製品(綿織物など)の輸出が阻害されるようになったために産業資本家も強く反発するようになった。穀物法反対の先頭に立ったのが、1838年に結成された反穀物法同盟であった。その中心となったコブデンとブライトはマンチェスターの産業資本家であった。こうして、穀物法は19世紀前半のイギリスの政治的な対立点の一つとなっていった。1840年代には物価騰貴・食糧不足は深刻となったため、労働者の中にも政治要求が高まり、1842年にはチャーティスト運動が盛り上がった。さらに1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉がおこるなど、深刻な事態が続いたため、ようやく1846年に議会が穀物法の廃止を成立させるに至る。
Episode 一日の給料でパン一山
(引用)1840年から50年までの10年は「飢餓の40年代」と呼ばれた。それはまず
1.給料がひどく低かった。
2.「穀物法」のおかげでずっとパンの値段が恐ろしく高かった。
パン一山の値段が、貧しい連中の一日分の給料だった。1845年のじゃがいも飢饉では、何千人ものアイルランド人が飢えて死に、残りはアメリカに渡って、そこでみんな、映画のちょっぴりネクラの警官になったらしい!ヴィクトリア(女王)が日記に書き残しているところでは、アイルランドの飢饉は「考えるだけでもぞっとする」――だから何も考えなかった。やったことといえば、朝食のパンを一枚控えただけ。
事態が好転したのは、メルボーン卿のあとを継いだロバート・ピール卿が「穀物法」を廃止し取り引きを自由化してから。これでパンの値段は一挙に下がった。それでもなお、ヴィクトリアはピールを嫌っていたけれど、保守党(トーリーの新しい名前)の党首としては、好きになるか、いやでも我慢するかのどっちかだということがわかった。……<ジョン・ファーマン/尾崎寔訳『とびきり愉快なイギリス史』1997 ちくま文庫 p.203>
穀物法廃止
1846年、イギリスで穀物の輸入を制限していた穀物法を廃止し、自由貿易を実現させた政策。保守党ピール内閣が実施。
1846年のイギリスでの穀物法廃止は、「伝統的な支配階級で農業に経済的基盤を持つ地主階級と、工業化を主導する新興ブルジョワ階級の利害がついに正面衝突し、工業の利害が凱歌をあげた自由貿易主義運動のクライマックス」であった。
穀物法は1815年に地主の利益を守るために、外国からの小麦輸入を制限する法律。産業革命が進行し、産業資本家が成長すると、彼らは工業製品の自由な輸出を阻害する穀物法に反対するようになった。また産業革命に伴う都市への人口移動によって生まれた都市の市民、労働者など広範な消費層も、こぞって穀物法に反対するようになった。その中心になったのが、1838年にマンチェスターで結成された、コブデンとブライトなどが指導する反穀物法同盟である。自由貿易主義者はこの穀物法廃止を最も強い要求としてかかげ、盛んに世論を喚起した。
その結果、1846年に保守党ピール内閣は穀物法廃止に踏み切った。これは、奴隷貿易廃止(1833)、航海法の廃止(1849)と並んで、自由貿易主義の勝利を意味する出来事であり、資本主義の完成した段階に入る前提となったといえる。 → 農業革命
穀物法は1815年に地主の利益を守るために、外国からの小麦輸入を制限する法律。産業革命が進行し、産業資本家が成長すると、彼らは工業製品の自由な輸出を阻害する穀物法に反対するようになった。また産業革命に伴う都市への人口移動によって生まれた都市の市民、労働者など広範な消費層も、こぞって穀物法に反対するようになった。その中心になったのが、1838年にマンチェスターで結成された、コブデンとブライトなどが指導する反穀物法同盟である。自由貿易主義者はこの穀物法廃止を最も強い要求としてかかげ、盛んに世論を喚起した。
その結果、1846年に保守党ピール内閣は穀物法廃止に踏み切った。これは、奴隷貿易廃止(1833)、航海法の廃止(1849)と並んで、自由貿易主義の勝利を意味する出来事であり、資本主義の完成した段階に入る前提となったといえる。 → 農業革命
保守党の政策転換
地主階級を基盤とする保守党は穀物法堅持を党方針としていたが、首相のロバート=ピール自身は大綿業家の息子で、保守党員でありながら自由貿易派だった。穀物法反対が盛り上がると廃止に踏み切るタイミングを計っていたかもしれない。1845年にアイルランドでジャガイモ飢饉が起きると情勢は大きく転換した。アイルランドからの穀物輸入が激減して価格が急上昇、穀物の価格高騰を抑えるためにも、その輸入を自由化する必要があると訴えた。ピールはついにホイッグ党の自由主義派であるマンチェスター派に同調し、廃止に踏み切った。こうして党首に裏切られた保守党は分裂し、翌年穀物法廃止法案は議会を通過した。生きのこった保守党はピールの方針転換によって、単なる地主=ジェントルマン政党ではなく、近代的な国民政党へ脱却できたと言うことができる。