印刷 | 通常画面に戻る |

自由貿易主義

産業革命後の19世紀前半、イギリスで台頭した貿易思想、およびその政策。関税などで自国産業を保護する保護貿易主義に反対し、国歌による貿易統制を最小限に留めることを主張した。

 19世紀初頭のイギリスでは絶対主義時代の重商主義政策が依然として継承され、さらに穀物法などの地主階級保護のための貿易政策がとられていたが、産業革命の進行に従って、産業資本家から自由な貿易を求める声が強くなってきた。自由貿易主義の理論は、産業革命の進行中に発表された1776年のアダム=スミスの『国富論』(諸国民の富)である。彼は「神の見えざる手」によって導かれる社会正義の中での経済活動の「自由放任主義」(レッセフェール)を主張した。またリカードは『経済学及び課税の原理』(1819年)で、比較生産費説を提示して、自由貿易が経済全体の発展をもたらすことを理論づけた。

自由貿易主義政策の実現

 1820年代に始まり、30年代~40年代に進められた一連の自由主義的改革、つまり1833年の東インド会社の商業活動停止、同年の奴隷制度廃止、1846年の穀物法廃止、1849年の航海法の廃止などによって自由貿易主義の思想が実現した。その結果、1830年代から70年代のイギリスは「世界の工場」と言われて繁栄したが、イギリス資本主義のための世界市場の拡張という基本を掲げ、自由貿易を推進したのがパーマーストン外交である。
 1840年のイギリスの中国とのアヘン戦争、50~60年代の日本に対する開国要求などは清朝や江戸幕府の管理貿易を打破し、自由貿易を強要するものであった。一方、インドに対しては50年代にインド大反乱を鎮圧して、1858年にイギリス東インド会社を解散し、政府による直接統治に改めたのである。このような19世紀中頃に確立したイギリスの自由貿易主義による世界市場支配は、最近では「自由貿易帝国主義」という概念で捉えられている。<川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史―帝国=コモンウェルスの歩み』2000 有斐閣アルマ p.122>

自由貿易原理の国際化

 イギリスは1830年代に自由貿易に転換したが、それ以外のヨーロッパ諸国はフランスを初めとして工業力で劣るため、高い関税を設けて自国産業を保護する、いわゆる保護貿易主義を採っていた。しかし、次第に保護貿易は自国の産業を守るどころか発展を阻害することを気がつき始めた。はじめに転換を断行したのが、フランス第2帝政のナポレオン3世であった。彼は1860年に英仏通商条約(その交渉に当たった人名からコブデン=シュヴァリエ条約ともいう)を締結し、議会に諮らず皇帝大権で批准し、関税引き下げ、輸入禁止措置の撤廃に応じた。イギリスもぶどう酒関税の撤廃で応えた。翌年にはベルギー、プロイセンとも同様の二国間通商条約を締結、さらにイギリス・イタリアなども相互に自由貿易的通商条約を結んだ。ここに「ヨーロッパ主要国間での自由貿易ネットワークともいうべき体制が成立した。」これがすぐに永続的になったのではなく、80年代の不況期には各国が保護貿易に戻るが、この60~70年代に初めて主要国間の自由貿易体制という国際経済秩序が成立したことは重要である。<『世界各国史12 フランス史』2001 山川出版社 p.329-330>

保護貿易主義

 イギリスで台頭した自由貿易主義に対して、それを先進的な工業化国家の勝手な主張であるとし、後発的な工業化途上国はそれから自国産業を保護することが必要であるという、保護貿易主義を展開したのが、ドイツ関税同盟を組織したことでも知られるドイツの経済学者フリードリヒ=リストであった。また後発国家であったアメリカ合衆国も工業を発展させようとする北部はイギリス工業製品との競争を避けるため、保護主義を主張し、南北戦争の一因となった。この戦争で北部が勝利した結果、アメリカは保護主義的な傾向が続く。ドイツとアメリカの二国は保護主義のもとでそれぞれ産業革命を進め、19世紀末には工業生産力でイギリスを上回ることとなる。

自由貿易の後退

 自由貿易か保護貿易か、と言う問題は現代まで続く国際経済問題の主要な対立点である。自由主義貿易を推進したイギリス・アメリカも帝国主義時代になってより競争が激化すると、世界恐慌を機にブロック経済という保護貿易に転換した。
 まずイギリスマクドナルド挙国一致内閣で保守党の蔵相ネヴィル=チェンバレンが主導し、1932年2月に保護関税法(輸入関税法)を制定し、輸入に一律10%課税することを定めた。その前にイギリスは金本位制の停止(離脱)してポンドの切り下げを行い、それらの措置によって国内産業を守って輸出を増加させようとした。このようなイギリスの内向きな経済政策、平価切り下げの姿勢はたちまち世界に広がり、1933年3月、F=ローズヴェルト大統領もアメリカ合衆国も金本位制を停止した。さらに、イギリスは帝国支配下地域に保護貿易主義の枠をつくろうとしてオタワ連邦経済会議を開催し、域内では互恵関税、域外に対しては高関税という閉鎖的排他的なブロック経済圏を構築した。この動きはフランス、アメリカも追随することとなり、帝国主義後発グループのドイツ、イタリア、日本との対立を深め、武力解決の道に急速に傾斜し、第二次世界大戦となった。

戦後の世界経済

 それが第二次世界大戦の大きな原因となったことを反省して、第二次世界大戦後はGATT(関税と貿易に関する一般協定)を成立させ、自由貿易のルール作りを進めてきた。保護貿易主義やブロック経済が世界大戦の原因の一つであったことへの反省から、自由貿易の原則は維持しなければならないというのが戦後認識では共通している。
 また、金融恐慌が再び起こらないように、各国通貨の為替の安定をはかる必要があるところから、新たに国際通貨基金(IMF)を発足させ、開発国援助のための国際復興開発銀行(IBRD)も生まれた。このように戦後は自由貿易を顕示してブロック化を防止し、過当な通貨切り下げ競争などが起きない工夫が施され、一定の世界経済秩序が形成されたと言うことができる。

世界経済の変質と自由貿易

 GATTは1995年には世界貿易機構(WTO)に格上げされたが、21世紀に入って世界経済は巨大化した金融市場や為替の不安定、世界的な地域格差の拡大などさまざまな困難に直面している。また、日本のコメ問題など、未だに身近な未解決の問題として続いている。
 2008年、世界は国際金融危機(リーマン=ショック)に見舞われ、そこからの回復を図る中、太平洋に面する諸国の中から自由貿易協定締結の動きが出た。この「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)」はアメリカが主導権を握る自由化構想にはあらゆる部門(教育や医療なども含めて)への拡大を迫る内容であるが、自由貿易という美名の下に、グローバリズムという実態は巨大な多国籍企業が世界の隅々まで支配しようという意図が疑われ、反対論も根強く起こった。2016年には日本も含む12ヵ国で協定が成立したが、同年11月のアメリカ大統領選挙で当選したトランプは翌年就任後、TPPからの脱退を表明、現在は11ヵ国で運用されることになった。「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領は自国の利益を優先する経済・貿易政策に転換したことを明確に示した。
 一方、2000年代に急速に成長した中国経済は、習近平総書記のもとで「一帯一路」と言う新たな理念を掲げて世界経済をリードする存在にまでなった。これは「シルクロード経済ベルト」とも言われる広域経済圏を成立させる構想であるが、アメリカの経済力の低下、イギリスのEU離脱などの情勢の変化をもたらす動きとなるものと思われる。ところが、2020年春、中国の武漢から世界中に新型感染症コロナウィルスの大流行によって、リーマンショック時を上まわる株価の一斉暴落がおこり、世界経済の先行きの混迷の度合いが一気に深まっている。<2020/3/19記>
印 刷
印刷画面へ