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ポーランドの反乱(1863)

1863年のロシアに対するポーランド人の反乱。第一インターナショナルが支援したが、鎮圧された。

 ウィーン体制ポーランド立憲王国は、実質的にロシアに支配されていた。ポーランドの民族運動は、1830年のポーランドの反乱に続き、1863年1月に再び盛り上がった。背景には、クリミア戦争に敗れたロシアで、アレクサンドル2世農奴解放令を出すなどの上からの近代化改革を開始したことであった。
 それに勇気づけられたポーランドの民族主義者は1863年の1月22日に蜂起し、「臨時国民政府」を宣言、「農民解放令」を発布して農民に無償で土地を与え、地主には補償を約束した。反乱は18ヶ月にわたって続いたが、ロシアは鎮圧軍を派遣して弾圧した。鎮圧軍の司令官はデカブリストの周辺にいたミハイル=ムラヴィヨフで、彼は峻烈な鎮圧策を実施したことから「絞首人」と呼ばれた。また、ロシアと同様、上からの農奴解放を実施し、反乱から農民を切り離した。最終的にはロシア軍に鎮圧され、ポーランドは自治権を奪われ、ロシア語の強制など、一体化が進んでポーランド王国は名前だけの存在となってしまった。<和田春樹『ロシア・ソ連』1993 地域からの世界史11 朝日新聞社 p.112>

ポーランド支援の拡がり

 なお、この時イギリス・フランスの労働者の中に、ポーランド救済のための国際的な組織の必要が叫ばれ、1864年ロンドンで第1インターナショナルが結成されている。しかし、同時にアメリカで南北戦争が始まっており、列強の耳目はそちらに向いていっため、ロシアに対する圧力にならなかった。独立を目指す運動はさらに継続され、第一次世界大戦後にようやくポーランドの独立が達成される。

Episode 猟銃や大鎌で戦ったポーランド人

 当時「赤党」と言われた愛国派の青年たちは1月22日に決起した。ロシアは蜂起を予想して約10万の軍隊をポーランドに駐留させていた。それに対して蜂起したのは6000人足らず、武器は猟銃や大鎌であった。戦闘はほとんど成功しなかった。この一月蜂起ほどの悪条件で立ち上がった例はない。しかし、パルチザン闘争は蜂起に批判的だった有産者たちの独立派である白党も加わるようになり、「臨時国民政府」も秘密の行政機構を張り巡らし、抵抗を続けた。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980年 三省堂 p.110~>
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書籍案内

和田春樹
『ロシア・ソ連』
地域からの世界史11
1993 朝日新聞社

山本俊朗/井内敏夫
『ポーランド民族の歴史』
1980年 三省堂選書