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ローマ共和国

1849年1月に、中部イタリアのローマ教皇領に成立した共和制国家。マッツィーニを迎え共和制を実現したが、同年末にフランス軍の介入により崩壊した。

 近代のローマの歴史の中で、一般に「ローマ共和国」とは、1849年に市民蜂起によって樹立された共和国のことであるが、それ以前に、ナポレオンがイタリア遠征を行った際に、1798年にローマを占領して樹立した「ローマ共和国」がある。これは、翌年、ナポレオンがローマ教皇との和解路線に転じたため消滅し、短命に終わった。 → ナポレオンのイタリア支配
 ナポレオン没落後の1814年以降、ウィーン体制下のイタリアは、再び北部をオーストリアに支配され、ローマ教皇の支配するローマも含め、君主制の支配する国家によって分断されるという状態に戻ってしまった。そのような中で、次第に民族の自由と国民的統一を求めるナショナリズムが強まってきた。
 イタリア統一を目指す動きは、1831年にイタリアでも市民の自由と独立、統一を求めるマッツィーニ青年イタリアの結成で本格化したが、1834年にサルデーニヤでの決起に失敗し、マッツィーニも亡命し、沈静化させられた。

1849年のローマ共和国

 1848年のフランスの二月革命をきっかけに、ヨーロッパ全各地でウィーン体制の抑圧に対する反発が一斉に噴きだし、一連の1848年革命といわれる革命運動が連鎖反応的に広がった。イタリアにおいては、オーストリア支配が続いていたミラノヴェネツィアで民衆蜂起が起こった。しかしいずれもオーストリア軍の直接介入によって鎮圧された。
 ローマでは、翌1849年初め、教皇国家の古い体制を批判し、自由とイタリアの統一を求める声が強まり、危険を感じたローマ教皇ピウス9世がナポリに亡命するという事態となった。実権を握った共和派市民は、1月には男子普通選挙を実施して議会を発足させ、1849年2月9日に「ローマ共和国」の成立を宣言した。
第三のローマ「人民のローマ」 ローマ共和国は北イタリアにいたマッツィーニを迎え、古代の共和制ローマの三頭政治に倣った三人の執政の一人となり、共和制を実現した。マッツィーニは議会で、古代の「皇帝のローマ」、中世の「教皇のローマ」に次いで、第三のローマは「人民のローマ」であると演説した。議会とマッティーに政権は、教皇の世俗権を無効とし、聖職者財産の国有化、司法・教育制度の改革、出版の自由、税制改革など次々と打ち出した。

フランスの干渉で崩壊

 しかし、フランス二月革命の後、大統領に当選したばかりのルイ=ナポレオンは、ローマ教皇を復帰させることを大義名分とし、実はイタリアの混乱に乗じてオーストリアが侵出するのを恐れ、先手を打って軍隊をローマに派遣したのだった。1849年4月、ローマ北方のチヴィタヴェッキオ港に上陸したフランス軍はローマ共和国に降伏を勧告したが、ローマ市民はローマ教皇の復帰を拒否し、戦うことを決意した。
 イタリア各地で義勇隊を組織しつつあったガリバルディもローマに入城、ローマ防衛軍は2万5千から3万を数えた。ローマ軍は北から迫るフランス軍と南から迫る両シチリア王国軍の二面から攻撃され6月~7月、激しい戦闘が続いた。ローマ軍は意気は上がったが装備も訓練も十分ではなく、次第に押されていった。ガリバルディは徹底抗戦を主張したが、マッツィーニはフランスの共和派の支援に期待した。しかしパリでは労働者の六月暴動が鎮圧され、二月革命は急速にしぼんでいた。
 ついにローマ共和国軍は力尽き、7月3日、フランス軍が入城して共和国政府は廃止された。ローマ教皇ピウス9世は50年4月、ローマに戻り、教皇国家が再現された。ローマは敗れ共和国は崩壊、一方のサルデーニャやトスカーナもオーストリア軍に制圧され、シチリアでも島民反乱はナポリ王国軍によっ制圧された。さらにヴェネツィアも8月下旬にオーストリアに降伏して、イタリアの独立と統一は再び抑えつけられることとなった。

参考 ローマ共和国とマッツィーニの関係

 一部の教科書、参考書には「ローマ共和国はマッツィーニが建国した」ととれる説明をしているものもある。この用語集でも当初そのように表現していた。しかし、上記のように厳密には、ローマ共和国が成立した1849年2月にはマッツィーニはローマになかったので、樹立にはかかわっていたとはいえない。北イタリアのリヴォールノやフィレンツェを駆け回ってローマとの合体を説いていた。3月になってローマに招かれて三頭執政官の一人に就任、実質的には独裁的な権限さえ与えられた。マッツィーニはローマ共和国に重要な関わりを持っていたことも事実であり、「ローマ共和国がマッツィーニによって建国された」というのも時系列からは間違えているが、精神的には間違いとも言えない。ただ、正確さを期すとすれば「ローマ共和国は市民の蜂起で樹立され、招かれたマッツィーニがその指導に当たった。しかし、フランスの軍事介入で倒された」という概説的な言い回しが正しいことになる。<この点は、代々木ゼミナール教材センター越田氏の指摘によって改めた>
 ローマ共和国とマッツィーニの関係については森田鉄郎氏の次の説明が参考になる。
(引用)おりからローマの議会がマッツィーニを名誉市民としてローマに迎えることを決定し、補欠選挙でかれを議会の代表の一人に選出した。その知らせを受けたマッツィーニは、3月5日ローマに急行して、翌6日熱狂的な拍手に迎えられて議場にはいり、かれの年来の理想である「人民のローマ」の建設を人びとに訴えた。<森田鉄郎『イタリア民族革命の使徒 マッツィーニ』1984 清水新書 p.139>
 マッツィーニはローマ共和国議会に三頭政治の樹立を提案して、カルロ=アルメリーニとアウレーリオ=サッフィとの三人からなる三頭執政官の一人に就任、政権の主導権を委ねられ、事実上の独裁的な指導力を発揮した。彼は「人民のローマ」を掲げ教皇による政治は否定したが、「神と人民のローマ」とも言っており、神の代理人としての教皇の宗教的権威を否定するものではなかったので、ローマ共和国で共和政の政体を作りながら教皇との妥協を図った。しかし、教皇側は応じず、共和国政府と議会の撤退を求めたので決裂した。その結果、早くも4月にはフランスの干渉軍がローマに迫り、6月に圧倒的な火力で攻撃を開始、7月3日にフランス軍がローマに入城した。マッツィーニは落城前に三等執政官を辞した。その後もローマ市街を歩きまわり抵抗を訴えたが、立ち上がるものもなく、かといって市民に再び立ち上がるきっかけを与えないためフランス兵も彼には手を出さなかった。やがて友人たちに説得されてスイスに向かい、再び長い亡命生活に入った。
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藤沢房俊
『「イタリア」誕生の物語』
2012 講談社選書メチエ