マッツィーニ
19世紀イタリアの独立と統一をめざす運動の指導者。ウィーン体制下の1831年、青年イタリアを組織する。蜂起に失敗し亡命してからも一貫した共和主義者として活動し、1849年にはローマ共和国に迎えられた。第一インターナショナルにも参加するなど、国際的にも活躍した。
Giuseppe Mazzini(1805-1872)
カルボナリに加わる
ナポレオンのイタリア支配に刺激されてはじまったイタリアの自由主義、民族主義の動きは、ウィーン体制のもとで、北イタリアをオーストリアによって支配されることによって、厳しく押さえ込まれていた。そのなかで、1820年代にカルボナリといわれたイタリアの独立を求める秘密結社が、ナポリとピエモンテで蜂起したが、いずれもオーストリア軍に鎮圧されてしまった。フランスの七月革命の影響を受けて、1831年2月には中部イタリアでもカルボナリの残党を主体とするイタリアの反乱が起こったが鎮圧され、それに参加していたマッツィーニも逮捕され、出獄後マルセイユに亡命した。Episode マッツィーニの失望
1820年代初頭のナポリとピエモンテの革命に失敗したカルボナリは、多くが国外に亡命し、パリなどを拠点に活動していた。マッツィーニは1830年にジェノヴァで加入し、活動を開始したが、その頃のカルボナリはマッツィーニの期待を裏切ることとなった。(引用)じっさいカルボナーロとしてのかれの体験は、最初からかれを失望させるものがあった。友人の紹介でかれに入党儀式を与えてくれたライモンド・ドーリア侯は……親しみにくい容貌の老人で、もったいぶったやり方でかれを膝まづかせ、口うつしに結社への忠誠と自己犠牲の決意を一方的にただ誓約させただけで、具体的運動目標についてはひとことも語らなかった。それでもかれは大きな運動のなかに身を置いたことを喜び、張りきってその結社の仕事に従事し、1830年にはドーリアの命令でリヴォールノにカルボネリーアの細胞を組織するため出かけたりした。さらにロマーニャのカルボナリと連絡をとるためボローニャに赴こうとしたが、かれの活動を怪しんだ警察の妨害に阻まれ空しくジェーノヴァに戻ったかれは、ドーリアから新しく入党する青年に入党儀式をおこなうよう命ぜられた。しかしそれは裏切者ドーリアが警察と通じてしくんだわなであった。入党希望者というのは警察のスパイであり、その儀式をおこなったのち2,3日してマッツィーニは一部の同志とともに逮捕された。<森田鉄郎『イタリア民族革命の使徒―マッツィーニ』1983 清水選書 p.51-52>3ヶ月ほど監禁されたのち、出獄後、1831年2月、イタリアを出てフランスに向かい、それ以後、生涯の大半を占める長い亡命生活が始まった。
青年イタリアを結成
マッツィーニは亡命先のマルセイユで、それまでのカルボナリが秘密結社として活動して民衆の支持がなく、またイタリアの独立と統一についての明確な方針を持たずに決起していることを反省し、1831年12月に「青年イタリア」を組織した。これは明確な綱領と組織原則を持ち、公然とした活動をする組織であり、イタリア最初の近代的政党でもあった。マッツィーニはまず、サルデーニャの国内で蜂起を準備し、1833~1834年にピエモンテやジェノヴァで決起したが、この段階のサルデーニャ王国は国王支配が脅かされることを警戒し、マッツィーニは再び逮捕され、蜂起は失敗した。青年イタリアの蜂起はその後も試みられ、いずれも失敗したが、この動きは、これ以後に本格化していくイタリア統一運動(リソルジメント)の出発点(カルボナリの蜂起はその前哨戦)だったといえる。「青年イタリア」の理念 マッツィーニが1831年の「青年イタリア」の綱領として掲げた理念は、・独立・統一、自由・平等・人類を目標に掲げ、「進歩と義務の法を信仰するイタリア人の友愛団体」であるとしている。またそれは「イタリアが一民族となることを信じ、一つの、独立した、主権をもつ、自由で平等な民族に復権させる」意志で結集したアソチアツィオネーネ(協会)であり、その目的にむかって「思想と行動」を捧げる組織であった。その理念には、フランス革命期のフランスの思想家コンドルセの『人間精神進歩の歴史』があり、キリスト教的な基盤の上に普遍的な進歩を実現するというサン=シモン主義の影響が見られる。<マッツィーニ/齋藤ゆかり訳『人間の義務について』2010 岩波文庫 解説 藤澤房俊 p.196>
「青年ヨーロッパ」を組織 スイスのベルンに亡命したマッツィーニは、1834年4月、「青年イタリア」をラテン・ギリシア民族の代表とし、スラヴ民族を代表とする「青年ポーランド」、ゲルマン民族を代表する「青年ドイツ」の三組織で構成される「青年ヨーロッパ」を結成した。それは、君主たちの神聖同盟に対抗する「ヨーロッパの諸民族の独立と友愛を原理とする最初の国際的組織」であった。「青年ヨーロッパ」には後に「青年フランス」も加わり、後の第一インターナショナルにも通じる、ヨーロッパの国境を越えた連帯をもとめた画期的で注目すべき動きであった。しかし、マッツィーニの動きを警戒したスイス当局により国外退去を命じられ、「青年ヨーロッパ」の活動はできなくなった。
「青年イタリア」の再建 マッツィーニは1837年には亡命先をロンドンに移し、そこで「青年イタリア」を再建、ロンドンの貧しいイタリア移民に識字教育を施しながら、労働者の運動にも関わった。その頃イギリスでは労働者の選挙権要求運動であるチャーティスト運動の影響も受けた。
チャーティスト運動を経験して、労働者階級への働きかけを強めるなどの転換を試みたが、イタリア内部では充分な反応を得ることができず、散発的な蜂起もいずれも失敗した。そのような中で、イタリア統一の期待は、サルデーニャ王国の国王カルロ=アルベルトや、ローマ教皇ピオ9世など、改革派と見られた国王や教皇に集まって行き、共和主義者であったマッツィーニも一時は彼らに期待したこともあった。このような中で1848年のヨーロッパ全体の変動が始まった。
1848年の革命
1848年の変動はまず一月にイタリアのシチリア島パレルモの蜂起に始まり、両シチリア王国、トスカーナ公国、サルデーニャ王国、教皇国家で憲法が制定された。さらにフランスに二月革命に続いてウィーン三月革命でオーストリアのメッテルニヒが倒されたことを受けて、ミラノとヴェネツィアでは市民が蜂起してオーストリアからの独立と共和政を宣言した。サルデーニャ王国のカルロ=アルベルトは1848年3月23日、オーストリアに宣戦布告し、第一次独立戦争(イタリア=オーストリア戦争)が始まった。ミラノでは3月、「ミラノの五日間」と言われる激戦でオーストリア軍を撃退した。マッツィーニは急きょサン=ゴダルド峠を越えて4月7日、ミラノに入り、凱旋将軍のように歓呼で迎えられた。しかし、ミラノでは共和国を維持するか、サルデーニャ王国への併合を求めるか、で意見が対立しまとまらなかった。カルロ=アルベルト王のサルデーニャ軍との連携も十分でなく、イタリア側の戦線は強力なオーストリア軍に反撃され、各地で敗れてしまい、これらの都市蜂起は抑えられてしまった。国王軍が敗れ、ミラノから撤退したのを見たマッツィーニは、ライフルを肩にかけてミラノを脱出、ベルガモで義勇兵を率いて戦っているガリバルディのもとに急ぎ、義勇兵のひとりとして戦った。しかしその戦いも敗れ、マッツィーニはやむなくスイスに逃れざるを得なかった。
ローマ共和国
一方、教皇国家に属していたローマにおいても自由と統一を求める動きが強まり、翌1849年2月、革命をおそれてローマ教皇ピウス9世が国外に脱出した後、「ローマ共和国」が成立した。マッツィーニは再び亡命中のスイスからローマに急きょ迎えられ、三人の執政の中の一人となり、ローマでの共和政治の実現に取り組んだ。4月にはガリバルディの義勇軍もローマ共和国に来援し、意気は上がった。しかしこんどの敵はオーストリア軍や両シチリア軍ではなくフランス軍だった。フランスで実権を握ったルイ=ナポレオンは教皇の要請に応えて、ローマに軍隊を派遣して攻撃、そのためローマ共和国も7月に倒れ、ガリバルディはゲリラ戦による抵抗を続けながら北を目指した。(引用)ガリバルディからその優柔な態度を攻撃されがちであったマッツィーニも、ローマ共和国の最後に際しては徹底抗戦を主張した。しかしローマ議会の大勢が降伏に傾いたのを知って、かれは三頭執政官の地位を辞し、降伏を前に野に降った。そしてフランス軍の入城後もなお数日ローマにとどまり、逃げかくれもせずローマ市街をさかんに歩きまわった。フランス軍の攻城が始まって以来、たえてベッドに横たわることがなかったかれは、その二ヶ月間の心労にすっかり老けこんでしまい、ひげなどもいっぺんに白くなったといわれる。しかし憔悴はしていてもその態度は毅然としていた。かれがそのようにローマ市街を歩きまわったのは、かれを憎むべき暴君呼ばわりしていたカトリック派新聞の中傷に挑戦し、あえて暗殺者の刃に身をさらそうとしたのだとも、また人民や兵士を最後の死物ぐるいの抵抗にもう一度奮起させようとしたしたのだともいわれる。あるいはそれは、欺瞞による勝利を掴んだ裏切り者フランスに対するかれなりの抗議であったかもしれない。そうしたかれをフランス軍はあえて逮捕しなかった。彼を逮捕した場合のローマ市民の怒りを恐れたのであろう。<森田鉄郎『イタリア民族革命の使徒―マッツィーニ』1983 清水選書 p.145-146>
イタリアの統一とマッツィーニ
マッツィーニはその後、友人の説得を容れ、マルセイユを経てジュネーヴ、さらにローザンヌに移りまたまた亡命生活を続けることになった。1850年代になると、サルデーニャ王国の宰相カヴールがクリミア戦争に参戦して、フランスやオーストリアと協力するなど、巧みな外交策で国際的な地位を高め、イタリア統一の主導権を得ようとした。マッツィーニはそのようなカヴールのやり方を民族の独立という課題を外交問題にすり替える物として亡命先から厳しく批判した。そのころ、都市部の労働者層の中にマッツィーニ支持者もふえていたので、たびたびジェノヴァやミラノに潜行してマッツィーニ派の蜂起を試みたが、そのいずれもが失敗し、次第にマッツィーニの蜂起主義には批判が強まっていった。一方カヴールは1858年にナポレオン3世とのプロンビエール密約を結ぶことに成功、4月についにオーストリアとのイタリア統一戦争(第二次イタリア=オーストリア戦争)に突入した。同盟軍は優位に戦いを進めたが、7月にナポレオン3世が突然オーストリアと単独講和(ヴィラフランカの和約)し、戦争は中断され、サルデーニャ王国はロンバルディアの獲得に終わった。ナポレオン3世の裏切りによるイタリア統一戦争の敗退を自分の見通したとおりだと考えたマッツィーニはなおもイタリア潜伏を図り、蜂起を画策したがこの時期には彼は思想家、扇動家のひとりにすぎず、実戦指導者としては過去の人物と見られていたのか、成果を上げることはできなかった。しかし、かつて青年イタリアの一員だったガリバルディがシチリア遠征を計画すると、それに全面的な支持を与え、長く対立していた両者の関係は修復できた。南イタリアがイタリア統一の焦点となると、マッツィーニもナポリに向かったが、現地では危険人物視され、活動ができなかった。マッツィーニ、ガリバルディ、カヴールの三人がイタリア統一の三傑と言われるが、1860年代には主役は後の二人に移行していた。 その後、イタリア統一運動はサルデーニャ王国の主導権のもとで展開され、ガリバルディが征服した南イタリアをサルデーニャ王に献上したことによって、1861年にイタリア王国という君主政国家として統一されることとなった。マッツィーニの共和政による統一国家という思想は実現されなかった。
ロンドンでのマッツィーニ
1864年、マルクスらがロンドンで第一インターナショナルを結成するとマッツィーニもそれに参加した。しかしまもなくマルクスとの意見の対立から脱退した。その他、彼はヨーロッパ統合の運動を起こすなど、イタリアの独立に止まらない、先駆的な活動を展開した。イタリアでも人気が高く、1866年にはイタリア王国の国会議員に選出されたが、彼は共和主義者として筋を通し、王政反対の意志を貫いて拒否した。1870年ようやく帰国したが、72年にピサで死去した。参考 マッツィーニの思想
生涯をイタリアの民族独立・統一と革命にささげ、長い亡命生活を送りながら、常に行動の人であったマッツィーニはどのような思想に導かれていたのだろうか。幸いなことに彼が1860年のイギリス亡命中に、イタリア人移民の労働者の子供たちのために書いた『人間の義務について』を文庫本で読むことができる。彼は、あえて「権利」ではなく「義務」を子供たちに教えているがそれは、人間には神・法・人類・祖国・家族・自分に対する「義務」をもっているからだ、と説く。そのうち、「祖国」に対する義務とは何かを説いた一節に次のような言葉がある。(引用)祖国は、領土ではありません。領土はその拠点に過ぎません。祖国とは、その拠点の上に成り立つ理念、愛情のこもった思い、その土地に生まれた人間たちを一つにまとめる共同体の意識です。たった一人でも国民生活の発展に自らの票を反映させることができない仲間がいるうちは、――みんなが教育を受けているところで、受けずにいる者が一人でもいるうちは、――能力も意欲もあるのに仕事がなくて貧困に苛まれている人間が一人でもいるうちは、あるべきかたちの祖国、みんなに属すみんなのための祖国は君たちのものになりません。投票、教育、仕事は、国民国家の主要な三本の柱であり、それが君たちの努力で確立されるまでは、一時も休むことはできません。<マッツィーニ/齋藤ゆかり訳『人間の義務について』2010 岩波文庫 p.94-95>そしてイタリアという祖国の使命は、第一のローマのローマ皇帝、第二のローマのローマ教皇よりも偉大である第三のローマとしての「人民のローマ」を実現することであり、その黎明が訪れつつある、君たちが築くべきひとつにまとまった自由な祖国である、と述べている。「君たちの祖国に対する義務は、この使命の崇高さに匹敵する物なのです。それを、エゴイズムの入らない純粋なかたちで、嘘や外交と呼ばれる政治的詭弁の巧妙な手管によって汚されることがないよう、守り抜かなければなりません。 → ローマ共和国の項を参照。
マッツィーニの思想の基層にはキリスト教信仰があり、人間の自由や権利の主張の背後に神の絶対的な存在が前提となっている。また、そのイタリア統一は、現実にはカヴールの「嘘や外交とよばれる」手管によって実現したので、マッツィーニは主導権を取れなかった。彼の「イタリアの進歩を阻むのは、目的のためには手段を選ばないマキャヴェリ主義と唯物論である」という言葉に表れているような、ただの理想主義者、時代遅れの精神主義者、高慢な扇動家とみられることが多いようだ。
しかし、近代~現代まで「領土のための戦争」が「祖国」の名で繰り返され、多くの人命が失われてきたことを考えれば、「祖国は領土ではありません」と160年前に彼が子どもたちに語りかけていたことを素直に評価して良いのではないでしょうか。また「投票は義務です」というシンプルに教えていることにも耳を傾ける必要があります。
また、最後の結論の部分では、労働者にとっての国民国家が如何にあるべきかを述べ、そこに独自のアッソチアツィオーネ(協会)社会について具体的に触れている。