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青年イタリア

1831年、自由主義者マッツィーニが結成した政党。イタリアをオーストリアから独立させ、共和政国家として統一をめざした。33~34年の決起に失敗し衰退したが、イタリア統一運動を最初に掲げた運動体として重要な働きをした。

 「青年イタリア」(ジョーヴィネ=イタリア)は1831年12月、マッツィーニが中心となって結成した政治的組織でイタリアにおける最初の近代的政党ともされる。オーストリアに支配されている北イタリア、ローマ教皇の支配する中部イタリア、ブルボン家の支配する南イタリアのナポリ王国とシチリア王国、という他民族支配と分裂状態であったイタリアで、自由・独立・統一を求めるイタリア統一(リソルジメント)を公然と展開した。また、19世紀前半のウィーン体制を揺るがす自由主義ナショナリズムの運動として、フランスの七月革命とともに重要な意味をもっていた。

カルボナリとの違い

 イタリアではすでに1820~21年にオーストリアの支配に反発してナポリとピエモンテでカルボナリが蜂起していたが、オーストリア軍によって鎮圧されていた。マッツィーニはカルボナリの影響を受けていたが、それとは違った運動として「青年イタリア」を構想した。
 青年イタリアはカルボナリに似た加盟儀式なども持っていたが、それが秘密結社であったために運動が広がらなかったことを反省し、明確な組織原理と綱領を持ち、公然と活動する政党として結成された。また、その戦術としては、ナポレオン支配に対するスペインの反乱から始まったゲリラによる民衆蜂起という形態をとった。活動期間は短かったが、イタリア統一運動を進める上で大きな働きをした。

サルデーニャでの蜂起失敗

 マッツィーニは蜂起の場所を反オーストリア感情の強いサルデーニャ王国に求め、自らの生まれた都市であるジェノヴァに赴き、活動を開始した。しかし、1833年、サルデーニャ当局に感知され、彼の共和政の主張を警戒した当局によって逮捕された。釈放されてから再び、1834年にサヴォイア(フランスとの国境地帯。現在はフランス領)でも蜂起を呼びかけたが失敗に終わった。執拗な「青年イタリア」の蜂起は、民衆に働きかけることには失敗したといわなければならない。
 スイスのベルンに逃れたマッツィーニは、「青年イタリア」の理念をイタリア以外にも呼びかけようと、「青年ヨーロッパ」を組織した。これを第二次青年イタリアという場合もある。その組織そのものは持続できなかったが、その理念は各国の抑圧された民族の青年に伝えられ、1848年革命などでの各国の蜂起になって現れた。
ガリバルディ イタリアでは「青年イタリア」に加わったり、影響を受けた若い世代が、それぞれ活動を引き継いでいた。後に「赤シャツ隊」で有名になるガリバルディは1834年の蜂起に失敗した後、南アメリカに渡り、そこでウルグアイなどの戦争に加わってゲリラ戦を身に着けた。

1848年の蜂起

 全ヨーロッパで自由主義・民族主義が再び盛り上がった1848年革命の時期には、イタリアではミラノ蜂起ヴェネツィア蜂起が起こった。マッツィーニは亡命先だったのでその蜂起を直接指導できなかったが、まもなくミラノに入り蜂起に加わった。南米から戻ったリバルディはサルデーニャ国王が開始した第1次イタリア=オーストリア戦争に加わり、アルプス山中でオーストリア軍と戦った。しかしいずれもオーストリア軍の反撃によって鎮圧され、再び亡命しなければならなかった。
 翌1849年には、ローマで共和派の市民が蜂起しローマ共和国が樹立されると、マッツィーニとガリバルディはともにローマに招かれ、マッツィーニは共和国の統領の一人として共和政治の実践に加わり、ガリバルディは軍事面で活動した。しかしこの場合も、フランスの大統領ルイ=ナポレオンがローマ教皇救済のために介入したため敗れ、マッツィーニとガリバルディはまたまた亡命生活に入らざるを得なかった。この頃、二人は戦術的な面で意見が対立し、再び協同することはなかった。

リソルジメントの転換

 こうして、19世紀前半の「青年イタリア」の共和政による統一を目指す運動は具体的な成果を得ることなく、事実上活動を停止した。その後の19世紀後半のイタリア統一運動の主導権は、サルデーニャ王国の首相カヴールによる立憲君主政をめざし、民衆蜂起ではなく、列強の支持を得るという外交的手段でオーストリアからの独立を実現するという、より現実的な手法に移行していく。

参考 青年運動の広がり

 マッツィーニは、イタリアの独立と統一は古いカルボナリ世代ではなく、19世紀生まれの若い世代(マッティーには1805年、ガリバルディは1807年生まれ)によって実現できると考え、25歳の若さで青年イタリアを組織した。さらに亡命先のスイスで「青年ヨーロッパ」を結成した。若い世代が変革の先端に登場したことは、世界史の中でも特筆できる。青年イタリア・青年ヨーロッパそのものは短期間で消滅したが、その後各地で同じように「青年」を冠した運動が起こってくる(もっとも年齢に関係なく、高齢者でも加わった人もいたが)。それには次のような例がある。
  • 青年ドイツ 1834年、マッツィーニの呼びかけで組織された「青年ヨーロッパ」の一組織で、スイス亡命中のドイツ人急進共和主義者が結成。ドイツではこの政治的な組織とは別に、ハイネなどの文学者が、復古主義やロマン主義を批判した興した文学運動を青年ドイツ派といっている。この運動もプロイセン政府によって弾圧された。
  • 青年ポーランド 1834年、青年イタリアと連携してスイスのベルンで亡命ポーランド人が結成。ウィーン体制のもとでロシアに支配されていたポーランドの独立を目指した。
  • 青年アイルランド党 1842年、アイルランドの独立を主張する急進的民族主義組織。青年イタリアを模範とした。1848年、オブライエンらが武装蜂起したが鎮圧された。
  • 青年チェコ党 ウィーン体制下でオーストリアに支配されていたチェコ(チェック人)ではベーメン民族運動が興った。その指導者パラツキーが国民党を結成したが、合法的な抵抗運動に留まったため、反発した急進派が制ねチェコ党を結成した。
  • 青年トルコ(人) オスマン帝国では1889年に結成された統一と進歩委員会はヨーロッパでは「青年トルコ(人)」と呼ばれた(「青年トルコ」という組織があったわけではない)。彼らが行ったオスマン帝国の近代化を目指す変革は青年トルコ革命といわれている。
 20世紀になると「青年〇〇」を称する民族主義運動が各地で生まれた。青年ボスニアは、オーストリア=ハプスブルク帝国の支配からスラヴ民族の解放を目指す民族主義者が1908年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に反発して組織。そのメンバーがサライェヴォ事件を起こした。
 他にアラブ世界の独立を目指す運動として、1907年の青年チュニジア(1911年のイタリア=トルコ戦争に反発してチュニジアの急成長した民族主義組織)、1910年ごろの青年ブハラ(中央アジアブハラの民族主義ジャディードの組織)、1911年の「青年アラブ」(パリで結成されたレバノン人の組織)、1933年の「青年エジプト」(ファシズムにならったエジプトの民族主義組織)などがあった。
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