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大ドイツ主義

ドイツ統一問題で、オーストリアのドイツ人居住地をを加えてドイツ国家を統一しようとする主張。オーストリアは帝国が分断されることになるので反対した。

 1848年革命が波及して、三月革命がウィーン、ベルリンで相次ぎ、それぞれ自由主義的な政府が成立したことによって、ドイツ連邦においても国民国家を建設しようという動きが急速に起き、フランクフルト国民議会が開催されることとなった。
 しかし、そこでドイツ統一問題が議論されるうち、明確な対立点が生じた。その争点となったのは、オーストリア帝国のドイツ人居住地域を含めるかどうか、であった。かつての神聖ローマ帝国、及びドイツ連邦の精神を継承するとすれば、当然ドイツ人居住区すべてを含むべきで、オーストリア本土を含むべきである、と言う主張となり、それは大ドイツ主義と言われた。この考えは会議の大勢として有力であり、それによってまとまるかにみえた。しかし、大ドイツ主義でドイツの統一を図ると、領内にチェコ人やハンガリー人を含むオーストリア帝国は分断されることになるので、オーストリアは強硬に反対した。やむなく、オーストリアを除外してドイツを統一せざるを得ないという、小ドイツ主義を唱える声も出てきたが決着がつかず、議会は延々と続いた。

大ドイツ主義の後退

 同年6月以降、ベーメンやハンガリー、さらに北イタリアの民族運動をつぎつぎと弾圧したオーストリア政府は、1849年初頭に、オーストリア帝国の「不可分・一体性」を謳った欽定憲法を制定した。これはフランクフルト国民議会の大ドイツ主義に対する真っ向からの否定となるので、フランクフルト国民議会はついに小ドイツ主義を結論づけることに決した。オーストリアを除外することになれば、プロイセン王国がドイツ諸国の中で最も有力であったので、プロイセン主導でドイツ統一が進められることになることを意味していた。こうして、小ドイツ主義に基づいたドイツ帝国憲法原案をが成立し、立憲君主政の政体を採り、プロイセン国王を皇帝に迎えることが決定した。しかるに、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世は、「議会の恩恵による」皇帝の座をつくことを拒否したため、憲法は宙に浮き、ついにドイツ統一はここでは完成せず、議会は解散した。
 こうして大ドイツ主義は実現が遠のき、ドイツ統一はプロイセンを中心とした小ドイツ主義(実際には大プロイセン主義)によって動いていく。その実現に向けてプロイセンを強力に引っ張っていったのが、ビスマルクであった。
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