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リスト

19世紀前半のドイツの経済学者。イギリスで強まった自由貿易主義に反対して保護貿易主義を主張し、ドイツ関税同盟結成を提唱した。経済学者としては「ドイツ歴史学派経済学」の父といわれている。

 フリードリヒ=リスト Friedrich List 1789~1846 は、近代ドイツを代表する経済学者であり、ドイツの鉄道建設など近代化にも貢献した人物であるが、世界的に主流となったイギリスのアダム=スミスやリカードなどの自由主義貿易に対しては、工業化後発国であるドイツの立場から反対し、保護貿易主義を主張した。その主張は、1834年1月にドイツ関税同盟の発足によって実現した。また、経済発展の法則を歴史的分析に求める手法で独自の経済学体系をつくりあげ、経済学者としては「ドイツ歴史学派経済学」の創始者とされている。しかし晩年は不遇で、最後はピストル自殺するなど、波乱に富んだ生涯を送っている。<以下、鴋澤(ばんざわ)歩『鉄道のドイツ史』2020 中公新書 などを元に構成>

保護貿易主義

 南ドイツの領邦ヴュルテンベルクの皮革製造業者の子として生まれ、独学で官吏採用試験に合格して行政監督官となり、1817年に認められてチュービンゲン大学の行政学教授に就任した。当時、ドイツ連邦はナポレオン戦争に敗れ、プロイセンなどの各領邦はウィーン体制のもとで保守化していたが、若いリストは立憲主義・自由主義と結びついた運動に加わって政府を批判したため大学を辞職しなければならなくなった。フランクフルトで実践的活動に入り、ドイツ商工業同盟を結成し、その活動を通して、領邦政府がイギリスの工業製品の自由な流入を許しているため、まだ幼稚なドイツの工業が苦境に立っていることを知り、かつては自らも信奉していたアダム=スミスらの「イギリス古典派経済学」に対する批判を強めていった。1820年には州議会議員となったが、政府批判の理由で投獄され、アメリカ移住を条件に許されたが実質的には逃亡であった。
 1824年からのアメリカでの生活では、悪戦苦闘しながら農場経営や出版事業などを経験、その結果、一定の富を得るとともに、アメリカが第二次独立戦争といわれた米英戦争を戦う中で、保護主義が強まっていることの影響を受け、ドイツの工業化のためには保護貿易政策をとるべきであることを確信するようになった。1832年に帰国したが、ドイツ人としてではなく、ライプツィヒ駐在のアメリカ領事の資格としての帰国であった。

ドイツ関税同盟の結成

 当時のドイツ連邦は、まだ単一の近代国家とはなっておらず、35の領邦と4つの自治都市からなる連合国家であり、それが、イギリスに比べて工業化の遅れの背景であった。帰国後のリストは、ドイツの工業化を実現するにはアダム=スミス流の自由貿易主義ではなく保護貿易主義をとるべきであると主張し、プロイセン王国政府もそれを認めて、1834年1月にドイツ関税同盟を発足させ、ドイツ領邦間の関税を廃止して対外的な統一関税を設定してドイツの経済の一体化を図った。これは、ドイツが近代的な主権国家として統一される前提となった。
 リストの議論の柱は、イギリス工業製品の流入を防ぐ「育成関税」であり、それを可能にする全「ドイツ」規模の産業保護的な関税障壁を設けることであり、当時のドイツ連邦が40近くの主権国家(領邦)に分断されている以上、それとは別個な「ドイツ」を一体化した広域関税圏として関税同盟を創出し、各領邦の関税(内国関税)は廃止することが必要である、というものである。当時は主要通貨の単位でさえ、北ドイツのターラーと南ドイツのグルテンとに分かれていた。リストは、ドイツの経済を一体化し、領邦の障壁を越えた経済活動のために必要なのが「鉄道」である、と考えるようになる。

ドイツの鉄道建設とリスト

 リストは1930年代にアメリカの鉄道に学び、全ドイツでの鉄道システムの構築を訴える論文を次々と発表、そのなかで「関税同盟と鉄道は“シャム双生児”(二重体双生児)である」という有名な言葉を残した。リストにとって鉄道はドイツを農業国から工業国に引き上げる強力な手段であり、統一的市場の形成、流通、雇用、分業などドイツの国民国家建設に先立ち、その呼び水になると考えた。
 リスト自身もドイツの鉄道建設事業に参加した。1837年にはドイツ語圏で最初の長距離路線であるライプツィヒ=ドレスデン鉄道の開設に関わったが、外国籍であることから役員になることはできなかった。リストはドイツ鉄道の先駆者ではあり「ドイツ鉄道の父」であるが、結局何ら報われることはなかった。
(引用)つまりフリードリヒ・リストは大学人、政治家、事業家としては失敗者だった。57年の人生の最後は、旅先での孤独なピストル自殺である。この悲劇は、19世紀前半のドイツ語圏の社会が、リストのような進取の気象(ママ)に富んだ人格にとって過酷なものだったことを端的に示す。同時にリストが人生の肝心のところで目論見を外し続けた結果であったことも、否定はできない。<鴋澤(ばんざわ)歩『鉄道のドイツ史』2020 中公新書 p.33>

ドイツ歴史学派経済学

 リストはパリやアウクスブルクで経済学の著述に専念、1841年に『政治経済学の国民的体系』を発表、それは経済学者としてのリストの名声を確立した。リストは経済活動の主体は歴史的に成立した、もっとも自然な単位である「国民国家」であり、その経済は生き物のように成長し、発展するもの、つまり「国民経済」である、と考えた。子どもと大人、若者と老人の違いがあるように、国民経済の発展の度合いに違いがあり、それぞれの歴史的段階が認められるならば、最も進んだ工業国であるイギリスの経済政策がドイツに当てはまるとは考えられない。ドイツに期待されるのは、生産規模が小さく、生産様式が幼稚な工業を保護することであり、その間にイギリスの工業を範として育成されるべきだ、というものであった。
 彼の歴史的発展段階論や有機体としての「国民経済」観は、その後の「ドイツ歴史学派経済学」に長く大きな影響を与えた。19世紀前半はイギリス古典派経済学のとなえる自由貿易主義が優勢となり、19世紀後半にはマルクス主義・社会主義経済思想が台頭したことで、歴史学派経済学は退潮した観があるが、逆にグローバリズムの弊害が問題視されるようになった21世紀には、リストの思想が改めて見直されるという局面にあるようだ。
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鴋澤(ばんざわ)歩
『鉄道のドイツ史』
2020 中公新書