エジプト総督
オスマン帝国がエジプト統治のために置いた地方官。メフメト=アリーが1841年からその地位を世襲化した。
オスマン帝国は1517年にマムルーク朝を倒してエジプトを征服し、その地に総督を置いた。総督(ワーリー)は、太守とも言われ、また尊称として一般にパシャ(高級軍人や大臣に付ける尊称)をつけて呼ばれる。オスマン帝国の一つの州の地方長官にすぎないが、エジプト総督の場合はスルタンの代理人としての統治権が認められており、特別の地位とされた。その主要な任務は、エジプトから徴税した税を、毎年一定額の貢納金としてイスタンブルのスルタン政府に送ることであった。
ムハンマド=アリー朝の総督
19世紀初頭、ナポレオンのエジプト遠征と戦ったオスマン帝国軍の傭兵隊長ムハンマド=アリーは、1805年にエジプト総督に任命された。その後エジプト現地で勢力を維持していたマムルークを一掃し、ワッハーブ王国討伐やギリシア独立戦争で功績を挙げ、ついに1830年代に二度にわたるエジプト=トルコ戦争を行い、オスマン帝国からの自立を図った。その結果、1840年のロンドン会議でエジプト総督(スーダン支配権も含む)の世襲権を認められた。厳密にはムハンマド=アリー朝の成立はここからであるが、一般にムハンマド=アリーが総督になった1805年を王朝創始の年としている。総督・副王・国王
ムハンマド=アリー朝の総督も形式的にはオスマン帝国スルタンの臣下であることは変わらなかったので、エジプトは主権国家とは言えず、半独立国家であった。ムハンマド=アリー朝のエジプトはスエズ運河の建設など通じて国家としての自立を進め、第5代イスマイールの時の1867年、オスマン帝国から自治を公式に認められ、総督から「格上げ」して副王(ヘディーウ)と称するようになった。しかし財政難に介入したイギリスの支配が強まり、1914年にイギリスの保護国となってしまった。それも副王の地位はそのままとされ、1922年にエジプト王国の独立が認められてようやく「国王」となった。それも1952年のエジプト革命で消滅する。