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ムハンマド=アリー

傭兵隊長から頭角を現し1805年にエジプト総督となりオスマン帝国からの自立を図る。エジプト=トルコ戦争で1841年に総督位の世襲を認められ国際的にもムハンマド=アリー朝が承認された。彼のもとでエジプトは実質的に独立を実現させ、近代化が推進されたが、同時に対外戦争も続いたため、矛盾が増大し、1849年のその死の後にはイギリスへの従属が進むこととなった。

ムハンマド=アリー
ムハンマド=アリー
(1769-1849)
中央公論社『世界の歴史20』p.105
 トルコ語表記ではメフメト=アリ。19世紀エジプトの最重要人物である。ナポレオンのエジプト遠征の混乱時に台頭し、1805年オスマン帝国の一地方政権として、エジプト総督となり、実質的な独立政権を立てた。1811年にはマムルークを一掃して実権を握ってエジプトの近代化政策を推進した。その間、1818年にはアラビア半島のワッハーブ王国(第一次)を滅ぼし、さらにスーダンなど周辺の勢力を伸ばして、次第にオスマン帝国に敵対するようになった。

ムハンマド=アリー朝

 1831年からは第1次エジプト=トルコ戦争を戦い、一時はシリアも支配下に入れるが、1839年からの第2次エジプト=トルコ戦争では、緒戦でオスマン帝国軍を破ったが、イギリス・ロシアなどの西欧列強の干渉を受けて敗北した。
 1840年ロンドン会議が開催され、ロンドン4国条約を締結、シリアは放棄したが、エジプト・スーダンの総督の地位の世襲化を国際的に認められ、エジプトの「ムハンマド=アリー朝」(~1952年)の始祖となった。オスマン帝国からの実質的独立を実現すると共に、上からの近代化を進めた、近代エジプトで最も重要な人物の一人である。 → エジプト

ムハンマド=アリーとナポレオン

 ムハンマド=アリーは生まれはエジプトではなく、マケドニアのカヴァラと言う町とされる。概説書や人名辞典などでは、アルバニア人であるとか、貧しいトルコ人夫婦のあいだに生まれたとか、タバコなどの商いをしながら軍人となったとか書いてあるが、その前半生は、みずから語ることはなく、伝説に過ぎないようだ。彼が生まれたのは1769年だが、その年はコルシカ島でナポレオンが生まれている。
 このナポレオンのエジプト遠征が、無名の傭兵隊長にすぎなかったムハンマド=アリーがエジプトの支配者にまでなるきっかけとなった。1798年ナポレオン軍がエジプトに侵入したのをうけて、1801年、オスマン帝国がフランス軍掃討のために派遣したアルバニア人不正規兵(傭兵部隊)の副隊長としてエジプトに渡った。その混乱時に、彼はウラマー(イスラーム教の宗教指導者)を中心としたカイロ市民の人心を掌握したらしく、1805年にカイロ市民の支持を背景にエジプト総督(ワーリー)に就任し、パシャ(文武高官の称号)と呼ばれるようになった。これは正式なものではなかったが、翌年にはオスマン帝国のスルタン・セリム3世からエジプト総督の地位を追認された。総督(太守とも訳す)は単なる地方官ではなく、大幅な権限が認められていたので、ムハンマド=アリーは実質的独立を勝ち取ったと言うことができる。その地位の世襲が認められるのは1841年であるが、実質的にはエジプトのムハンマド=アリー朝は1805年に成立したといえる。 → オスマン帝国領の縮小

マムルーク勢力の一掃

 ムハンマド=アリーは、エジプトの実権を握ると、軍隊や国家の機構、経済などで近代化をはかる必要を感じたが、その際に障害となるのが、マムルークの勢力であった。マムルークは9世紀にさかのぼる、イスラーム世界における、主としてトルコ系からなる奴隷兵士のことであるが、彼らの勢力は13世紀のマムルーク朝以来、政治的な権力を握るほどになっていた。マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国はエジプトを統治する際にマムルークをそのまま存在させ、マムルーク=ベイと言われる有力者が実際のエジプトを統治し、そのもとでマムルークはさまざまな特権を有し、社会を押さえていた。
 そのマムルークを一挙に叩こうとしたムハンマド=アリーは、奇計を用いた。1811年、マムルーク500名を、ワッハーブ派討伐軍派遣の壮行会と銘打って宴会を開き、城砦にとじこめてアルバニア兵に襲撃させ、一気に虐殺したのだった。これが「城塞の謀計」と言われるマムルークの一掃である。

ムハンマド=アリーの近代化政策

 ムハンマド=アリーはエジプトを近代国家にすべく、さまざまな改革を行った。農業では商品作物である綿花の栽培の奨励と灌漑用水の導入を進め、エジプト農業を根底から変革して現在につながっている。その上で全国の土地調査を実施し、政府が直接に徴税する体制をつくり、新たな地租を導入した。また西欧の技術を導入した近代的工場の建設を進め、紡績、織機、兵器生産などに力を入れた。そのために多くの外国人技術者を採用し、留学生をヨーロッパに派遣した。またアラブ世界で最初のアラビア語印刷所を設け、学校の教科書や翻訳医術書を刊行した。さらに、近代的な徴兵による軍隊を創設し、ヨーロッパ列強の侵略に備えようとした。これらの政策は、約半世紀後の日本の明治維新と同じような富国強兵・殖産興業であり、地租改正・文明開化といえる政策であった。またこれらの改革を、外国からの借り入れに依存することなく自力で行ったことが評価されている。しかし、農民に対する徴税やエジプト=トルコ戦争などでの兵役負担は次第にその不満を増大させ、ムハンマド=アリー朝は次第に外国資本に依存する面が強くなった。

ムハンマド=アリーの外征

 19世紀初頭、オスマン帝国の領土内ではアラビア半島のワッハーブ派の蜂起と、バルカン半島におけるギリシア人・セルビア人の民族独立運動が始まっており、ムハンマド=アリーは当初はオスマン帝国に協力してこれらを抑える上で大きな力を発揮した。
  • 1818年 アラビア半島に進出、ワッハーブ王国(第一次)を滅ぼした。実際にはムハンマド=アリーの息子、イブラーヒームが率いるエジプト軍が、近代的な装備によって、ワッハーブ王国の土豪軍を破った。
  • 1821~30年 ギリシア独立戦争に出兵。オスマン帝国は独力では抑えられず、エジプト軍に鎮圧を要請。しかし、イギリス・フランス・ロシアがギリシアを支援して介入、1827年ナヴァリノの海戦でオスマン海軍が敗れ、1830年にギリシア独立を承認。ムハンマド=アリーはこの戦争で、クレタ島・キプロス島を総督として支配する権利を得た。
  • 1820~22年 エジプトの南のスーダンに進出し、エジプト領とした。

エジプト=トルコ戦争

 ムハンマド=アリーは、最終的にオスマン帝国との戦争に踏み切った。オスマン帝国に対してギリシア独立戦争の際の出兵の代償としてシリアの行政権を要求し、それが拒否されたことから、1831年、息子のイブラーヒームをシリア・アナトリアに進撃させた。こうして、第1次エジプト=トルコ戦争が始まった。ムハンマド=アリーは優位に戦い、シリア総督の地位をかねることをオスマン帝国に認めさせたが、イギリス・フランスなどがエジプトの台頭を警戒して干渉し、1839年、第2次エジプト=トルコ戦争となり、今度はムハンマド=アリーはイギリス軍に敗れ、1840年ロンドン会議が開催され、翌1841年、エジプトはシリアからは撤退し、彼はオスマン帝国からエジプトとスーダンの総督の地位の世襲権を認められ、ここに正式にムハンマド=アリー朝が成立した。
 ムハンマド=アリーはその後、1848年まで総督の地位にあったが、晩年は精神が犯されたという。退任の翌49年に死去した。

ムハンマド=アリー後のエジプト

 ムハンマド=アリー朝は、形式的にはオスマン帝国を宗主国としているものの、実質的には独立国家として、その後も地中海東部の要地を占め、重要な存在となっていく。特に1869年スエズ運河開通が開通したことはエジプトが世界史のひとつの焦点となっていくことを意味した。それより前の1867年、第5代の総督イスマーイールから副王と称することとなり、自立の度合いを高めた。しかし、ムハンマド=アリーの時の近代化事業と戦争によるエジプト財政の困窮が実際には深刻になっており、イギリスの経済援助によって存立している事態が続いていた。1875年スエズ運河株をイギリスに売却、さらに翌76年にはついに財政破綻して、イギリス・フランスの列強による国際管理下に置かれることとなる。イギリスによる介入に反発して1881年ウラービーの反乱が起きるが、それを武力で鎮圧したイギリスが実質的にエジプトの保護国化することになる。