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スルタン

イスラーム国家において宗教的権威であるカリフから、一定地域の世俗的権力を委託された者の称号。セルジューク朝で公式にはじまり、14世紀のオスマン帝国で君主の称号として確立した。13~16世紀、インドのデリーで続いたイスラーム政権の支配者もスルタンを称した。オスマン帝国では18世紀にスルタンがカリフの地位も兼ねてスルタン=カリフ制がとられたとされ、スルタンの権威づけが行われた。

 スルタン(スルターン)は支配者、権力者を意味し、西欧での国王に相当する。イスラーム世界でスルタンの称号を最初に用いたのは、10世紀末のガズナ朝マフムードとされているが、公式にはセルジューク朝からである。  正統カリフ時代からのカリフが宗教上・政治上の権威を併せ持っていたが、アッバース朝時代からは次第にその権威が衰え、ブワイフ朝では大アミールが政治の実権を任され、カリフはその保護を受ける名目的、象徴的なものにすぎなくなっていた。

セルジューク朝のスルタン

 11世紀中ごろの中央アジアに興り、中東に南下したセルジューク朝トゥグリル=ベクは、スルタンを名乗り、1055年にバグダードを占領し、ブワイフ朝に代わって支配権を握った。このセルジューク朝でもスルタンは「カリフからイスラーム法の執行権を与えられた者」として世俗の権力を持つ指導者となり、カリフは宗教的権威のみを保持する存在となった。なお、セルジューク朝ではバグダードの本家がスルタンと称しただけでなく、小アジアの地方政権であったルーム=セルジューク朝でも君主はスルタンと称している。その後、スンナ派の諸王朝では世俗的・軍事的な権力者としてスルタンの称号が一般化する。なお、シーア派では例えばイランのサファヴィー朝のようにシャーが使用された。

オスマン帝国のスルタン

 一般にオスマン帝国の君主は、はじめはベイと称していたが、14世紀末のバヤジット1世の時にエジプトのカイロに亡命していたアッバース朝カリフから認められてスルタンと称するようになったとされている。しかし、すでにその父の第3代ムラト1世がスルタンと称していた記録も残っている。
スルタン=カリフ制 1258年、バグダードがモンゴル軍によって占領され、アッバース朝が最終的に滅亡したとき、最後のカリフは殺害されたが、その血縁のものの一人がカイロに亡命し、マムルーク朝の保護を受けた、と伝えられている。さらにオスマン帝国が1517年にマムルーク朝を滅ぼしたとき、オスマン帝国のスルタンがカリフの地位を兼ねることを承認されたとされており、オスマン帝国はその伝承を元に「スルタン=カリフ制」の根拠としている。しかし、最近はスルタン=カリフ制は18~19世紀にスルタンの権威を強調するためにつくり出された虚構であるという説も有力になっている。
 いずれにせよオスマン帝国のスルタンはカリフを兼ね、スルタン=カリフと言われてオスマン帝国の世俗の権力と、全イスラーム教と(スンナ派)の宗教的指導者との両面を持つ、絶大な権力を有することとなった。しかし、19世紀にはオスマン帝国の政治・社会の後進性が次第に明らかになっていった。帝国主義諸国にその周辺を奪われ、領土を縮小せざるを亡くなり、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北したことに伴ってトルコ革命が起こった。その中で、1922年にスルタン制度が廃止される。(以後、アラブ人でスルタンを称する者も出現する。)

その他の地域のスルタン

 インドでも1206~1526年にデリーで展開したイスラーム政権、デリー=スルタン朝の各王朝の王はスルタンを称した。その他、東南アジアやアフリカのイスラーム政権の首長がそれぞれスルタンを称している。つまり、スルタンという称号は、オスマン帝国を除いては、比較的狭い地域的権力や地方の有力者が称えることが多かった。

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