ディーワーニー/徴税権
ムガル帝国での徴税権を意味する。1765年、ベンガル・ビハール・オリッサ三地方のディーワニーをイギリス東インド会社が獲得したことは、この徴税権に行政権・司法権も附属していたので、イギリスのインド領土支配の開始を意味した。
1765年、イギリス東インド会社は、ムガル帝国皇帝からベンガル・ビハール・オリッサの三地方のディーワーニーを与えられた。ディーワーニーとはムガル帝国で徴税権をいう。これはディーワーンに与えられる権限、という意味。ディーワーンとはイスラーム国家で本来は征服活動に参加するアラブ人戦士にアターを支給するための台帳を意味した。やがて王朝のすべての官庁を意味するようになった。ムガル帝国では地方行政の中の財政や民事裁判を担当する官職がディーワーンといわれ、その権限、つまり徴税権を主とするが、行政権さらに司法権まで含む権限がディーワーニーであった。教科書・用語集でも「徴税権」の用語が当てられているが、行政・司法にも及ぶ権限であったことところから財政権という用語をあてている概説書もある。
POINT イギリスのインド領土支配の始まり イギリスが徴税権を得たと言うことは、インドを単なる市場、原料供給地としてを介して支配するのではなく、その土地そのものを領土として事実上、直接支配するようになったことを意味している。 → インド
一方の東インド会社にとっては、それまでの綿製品の対価としてだけではなく、労せずして税を収入として得られるので大きな利益をもたらした。しかし、その利益は本来は本国にもたらされるものであったにもかかわらず、東インド会社の役員・社員が役得や賄賂という形で横領したため、本国政府には思ったような収入をもたらさなかった。そのため70年代以降は本国政府は東インド会社に対する統制を加えるようになる。そのため、1773年にベンガル総督を置いて行政に関しては会社と分離する方策を採るようになった。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.168-174> → インド総督
POINT イギリスのインド領土支配の始まり イギリスが徴税権を得たと言うことは、インドを単なる市場、原料供給地としてを介して支配するのではなく、その土地そのものを領土として事実上、直接支配するようになったことを意味している。 → インド
東インド会社のディーワーニー獲得
1757年のプラッシーの戦いに勝利したイギリス東インド会社は、さらに1764年のブクサールの戦いで再び勝利した。この戦いは、ムガル帝国皇帝がベンガル太守とアワド太守と連合してイギリスと戦い、そこでムガル帝国皇帝が敗れたことは、イギリスに対する立場を完全に失ったことを意味した。翌1765年、東インド会社代表クライヴは、ムガル皇帝と条約を結び、ベンガル・ビハール・オリッサの三地方のディーワーニー(徴税権とそれに付随する行政・司法などを含む権限)を授与された。これは領土そのものを割譲されたわけではないが、徴税を通して実質的な支配権を獲得したことを意味していた。それによってムガル帝国及びベンガル太守の支配権は名目的なものとなり、租税収入がないので東インド会社からの年金受給者という存在となってしまった。一方の東インド会社にとっては、それまでの綿製品の対価としてだけではなく、労せずして税を収入として得られるので大きな利益をもたらした。しかし、その利益は本来は本国にもたらされるものであったにもかかわらず、東インド会社の役員・社員が役得や賄賂という形で横領したため、本国政府には思ったような収入をもたらさなかった。そのため70年代以降は本国政府は東インド会社に対する統制を加えるようになる。そのため、1773年にベンガル総督を置いて行政に関しては会社と分離する方策を採るようになった。<浅田実『東インド会社』1989 講談社現代新書 p.168-174> → インド総督