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シク戦争

19世紀中期のイギリスとインド・パンジャブのシク教徒との2次に渡る戦争。1849年に終わり、インドの植民地化に対する最後の抵抗となった。

 インド北西部のパンジャーブ地方(現在はパキスタン領とドイツ領に分割されている)のシク教徒(シィクとも表記)はムガル帝国から自立してラホールを都にシク王国をつくっていた。イギリスは19世紀中期の1845年から2次にわたりシク教徒と戦い、1849年にパンジャーブ地方を併合した。パンジャーブの北の山岳地帯カシミール地方には、イギリスはヒンドゥー教徒の藩王を立て、カシミール藩王国として間接統治した。
 その後、シク教徒はイスラーム教徒と激しく対立していたため、1857年にインド大反乱(シパーヒーの乱)が起きると、イギリスの傭兵として反乱鎮圧に回った。同じインド人が宗教的な違いから、殺し合うという悲劇を生んでいる。その後もシク教徒の兵士は、ネパールのグルカ兵とならんで勇猛果敢で知られ、大英帝国の軍事力の一部となる。

シク戦争の経緯

 シク王国は、王国を一代で築いたランジット=シングが1839年に死んだ後、王位継承を巡って内紛が生じていた。イギリスは当時すでに、マイソール戦争マラーター戦争に勝利を収め、植民地支配をインド全土に拡大しつつあった。ムガル帝国もデリー周辺を支配する一地方政権にすぎなくなっており、もはやインド内部の反英勢力としてはパンジャブ地方のシク王国しか存在していなかった。特にイギリスはアフガニスタンイランにロシアが進出していることを警戒し、それに隣接するパンジャブ地方のシク王国をその配下に収めようとした。

・第一次シク戦争 1845~46年

 イギリスはシク王国が内紛で混乱しているのを見て、東インド会社軍を国境に展開し、挑発した。1845年、シク軍が先にサトレージ川を越えて攻撃を開始、イギリスの策はあたった。イギリス軍は苦戦したが、ソプラーオンの戦いで大勝した。翌1846年、イギリス(東インド会社)とシク王国は和平条約(ラホール条約)を締結、シク王国は賠償金の支払いとカシミールの放棄を約束、カシミールにはヒンドゥー教徒のグラーブ=シングを藩王とする藩王国を置くことを認めた。 → カシミール帰属問題

・第二次シク戦争 1848~49年

 1848年、パンジャブでイギリスに対する反乱が起き、イギリス軍が出兵して戦争となった。反乱はパンジャブ全土に広がったが、グジャラートの戦いでイギリス軍がシク軍を破り、戦争は1849年3月に終結した。

イギリスのパンジャブ支配

 イギリスは征服地に対して、直轄支配下に置くか、藩王国として一定の自治を認めるかのいずれかの処置を執っていたが、パンジャーブのシク王国領に対しては前者をとり、併合した。この地がアフガニスタンに隣接することを重視したものと思われる。こうしてパンジャブを最後に、カーナティック戦争プラッシーの戦いに始まったイギリスのインド征服戦争は終わった。<中里成章他『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史14 1998 中央公論社>