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シク教

16世紀、インドでヒンドゥー教を改革したナーナクがはじめた宗教。イスラーム教の影響を受け一神教・偶像崇拝の否定・カーストの否定など、民衆に広がった。パンジャーブ地方では大きな政治勢力となり、ムガル帝国に抵抗し、さらにシク王国はイギリスの侵略ともシク戦争を戦った。現在もインド北西部を中心に大きな宗教勢力となっている。

 16世紀初め、パンジャーブ地方のラホールを拠点として、イスラーム教の影響を受けてヒンドゥー教の改革を掲げ、一神教信仰、偶像崇拝の否定、カーストの否認などを説いたナーナクが創始した宗教。シクとは弟子の意味で、ナーナクを師(グル)として、その弟子(シク)として忠実に教えを守ることからシク教(またはスィク教)といわれた。シク教徒は次第に集団的な結束を強め、17世紀後半にはムガル帝国のアウラングゼーブ帝の弾圧に抵抗して戦った。19世紀には西北インドの一大勢力となり、シク王国を造り、イギリスとのシク戦争を戦った。このように独立心が強く、また戦いをいとわなかったので、イギリス統治時代には兵士となる者が多かった。

シク教の教義

 シク教の根本的な原理はパンジャーブ語で「サト・ナーム」と略称される、〝唯一なるもの〟が存在し、そこから宇宙が形成されあらゆるものが存在するという〝絶対真理〟を信じることである。その点では一神教的なキリスト教やイスラーム教に近いが、創造された自分たちの姿をモデルとした神や、天を支配する絶対者としての神を具象化することはない。
 シク教は、霊性を与えられたと信じられている初代のグルであるナーナクからはじまり、9人のグルが続き、10人のグルの言葉は『グル=グランド』に収められ、聖典とされている。この書は最高の尊敬を込めて取り扱われる。信者の信仰形態は、
・唯一なる〝絶対真理〟を崇拝し、それを読誦し、祈りを捧げる。
・いかなる職業にも軽蔑されず精一杯働くことがよりよい来世につながる善行とされる。
・〝神聖なるもの〟はすべての人に存在するのだから、すべての人は平等である。
・〝唯一なるもの〟に奉仕するため、信者は共同体を作り助け合う。
などとなって現れる。従ってシク教徒の考えではカーストや人種、貴賤、男女の差は否定される。実際その信者には、元々下層のカーストとされた商工業者に多かったが、次第に農村の小領主層にも広がっていった。
聖地アムリットサルと黄金寺院 1604年8月16日、編纂が終わった聖典『グル・グラント』を納めたところがアムリットサールのハルマンディルという聖堂であった。グル=ラーム=ダースが1577年に貯水池をつくり、アムリトサル(甘露の池)と名付けた。アルジャンがグルの座を継承したとき、彼は聖堂を聖なる池の中に立てさせたのに納められた。それ以来、この聖堂はシク教の聖地とされ、第4代グル(ナーナクの後継指導者)ラーム・ダースの時に建造が始まり、1601年に完成した。ハルマンディルはヒンドゥーとイスラームのデザイン両方を参考に建てられており、1799年にシク王国を築いたランジット=シングは建物に金箔をほどこし、ゴールデン・テンプル(黄金寺院)と言われるようになった

シク教団への迫害

 16世紀、ナーナクはヒンドゥー教とイスラーム教の統合を説き、平和主義と平等主義をかかげる宗教改革者としてに登場した。キリスト教世界でのルターの宗教改革と時期もその意味も同じである。そのため、既存教団や国家からは厳しい宗教的迫害を受けた。グルのなかにはムガル皇帝によって処刑されたものもおり、第5代のグル=アルジュンはアクバル帝と同時代にアムリットサルに黄金寺院を建立し、カビールやナーナクなどのグル(教主)の教えを記す聖典『グラント・サーヘブ』を編纂したが、次のジャハンギール帝に捕らえられ、自ら命を絶った。

シク教団の武装化

 17世紀のアウラングゼーブ帝による寛容政策からイスラーム教強制政策への転換がなされると、第9代のテーグ=バハードゥルが1675年に処刑された。それに対して、シク教徒は自己防衛のために武装を開始した。1699年に第10代のグル=ゴービンド=シングは信者を一種の戦闘集団であるカールサー(清浄なる者たちの意味)を組織し、その構成員たちにシク教徒以外の者との違いを明確にするために5つのシンボルを与えた。
シク教徒
現代のシク教徒戦士の正装
コウル=シング/高橋尭英訳『シク教』p.67
・ケーシャ 髪を切らず長く伸ばさなければならない。髪も髭も伸ばしたままにする。
・カンガー 身を整えるために櫛を携行する。
・カラー 右腕に鋼鉄製の腕輪をつける。力強さと揺るぎない結束を象徴する。
・カッチャー ゆったりした半ズボン状のズボン下を着用する。
・キルバーン 剣―自己防衛と不正に対する闘争を象徴する―を常に携行する。
この外的な標識は「5つのK」として知られ、現在でもシク教徒が守らなければならないこととされている。<以上、コウル=シング/高橋尭英訳『シク教』1994 シリーズ世界の宗教 青土社による>

シク教徒の反乱

 パンジャーブ地方を中心にしたシク教の信者集団は、17世紀にムガル帝国のアウラングゼーブ帝のイスラーム教強制政策による圧迫を受けたことによって大きく変貌した。第10代のグル=ゴービンド=シングは一種の宗教改革をおこない、ナーナクの平和主義を転換させ、戦闘的で強固な教団組織に変貌させた。信徒はつねに武器を携行しカールサーといわれる共同体に属して教団を守った。その多くは農民や職人などの下層カーストに属する人々だった。彼らは北西インドにおける反ムガル勢力として、たびたびムガル帝国と戦った。アウラングゼーブ帝の死後はパンジャーブ地方にシク教徒の小王国が多数自立した。

シク王国とイギリスとの戦争

 ラホールを拠点としていた王ランジット=シングは、急速に周辺の小王国を統合し、1799年にシク王国を築いた。ランジット=シングは、ムガル帝国との戦いや、18世紀中頃のアフガニスタン人の侵入によって荒廃したパンジャーブ地方の復興につとめ、農業や商業を保護し、外国人技師を登用して近代的な銃や大砲、騎兵で武装した軍事国家を作り上げていった。しかし、1839年にランジット=シングが死去すると内紛が生じ、そこをイギリスにつけ込まれることとなって、1845~48年にシク戦争となった。シク王国は激しく抵抗したが敗れ、パンジャーブはイギリスの直轄領とされた。このとき伝来の巨大なダイヤモンド「コ・イ・ヌール」がヴィクトリア女王に献上された。 → インド帝国

現代のシク教徒

 シク教徒は宗教教団としてはその後も続き、パキスタンとインドにまたがるパンジャーブ地方には現在約一千万人の信者がいる。さらにイスラーム国家であるパキスタンを嫌ってイギリス、アメリカ、カナダ、東アフリカ、香港などに移住したシク教徒も多く、パンジャーブ以外の世界中では約一千二百万人のシク教徒がいる。インドでは全体の人口の約2%にすぎないが、シク教徒はその勤勉さや勇敢さから実業界や軍人として成功した人が多く、社会的には高い地位にあると言っていい。スポーツ界で活躍しているにとも多い。
 1980年代には、イスラーム原理主義の影響を受け、シク教徒の中にも過激派が現れ、彼らはパンジャーブのインドからの独立を主張するようになりった。1984年6月5日にはその総本山アムリットサールの黄金寺院(ゴールデン=テンプル)に立てこもるという事件を起こした。インディラ=ガンディー首相は実力で鎮圧したが、さらに反発したシク教徒過激派によって同年10月暗殺された。シク教徒によるパンジャーブ独立運動(彼らは「カリスタン独立運動」と言っている。パキスタンに含まれるパンジャーブ地方ではなく、それに隣接するインドのパンジャーブ州のこと)は現在のインドの抱える難問として続いている。

Episode シク教徒のターバン

 ある人がシク教徒かどうかを判別するのはいたって簡単である。まず名前。シク教徒は男性はすべて「シング」(日本ではシンと発音されることが多い)、女性はすべて「コウル」という名字がつく。シングとは「獅子のような心をもった」、コウルとは「王女」という意味である。その外見もはっきりとしていて、まず男女とも彼らの宗教の象徴として右手首に鋼鉄製の腕輪をしている。またしばしば男性は、髭と長い色鮮やかな布を頭に巻いた頭飾りであるターバンで特定できる。ターバンはイスラーム教徒も使うが、シク教徒は宗教的シンボルとして髪を切ることが許されないのでターバンはどうしても必要になる。これが時に問題になる。イギリスではオートバイ運転時にヘルメットを着用する義務からターバンを巻いたシク教徒を免除する法令を発布せざるを得なかった。アメリカではシク教徒が軍服着用時にターバンを着用を認めてほしいという訴訟が起こされている。<コウル=シング/高橋尭英訳『シク教』1994 シリーズ世界の宗教 青土社 p.13>

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