パンジャーブ
インダス川の上流地域を指す地名。インダス文明の生まれた範囲に含まれ、クシャーナ朝の仏教文化なども栄えた。インド独立にあたり、インドとパキスタンに分断され、その後も領土問題が続いている。
インダス川の上流域、5本の支流に分かれるところから、「5本の川」を意味する「パンジャーブ」(ペルシア語で5がパンジ、川がアブ)といわれた。5本の川とは、西からジェーラム川、チュナーブ川、ラーヴィー川、ベアース川、サトレジ川のこと。ハラッパーの都市遺跡を中心とした「インダス文明」が栄えたが、前1500年頃から、西北のカイバル峠を越えてアーリヤ人が侵入し、先住民を征服、現在のインド文明が形成された。また前4世紀後半にはアレクサンドロス大王が侵入し、世紀の終わりごろにはガンジス川流域に起こったマウリヤ朝の支配を受けた。紀元後1世紀にはこの地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)を都としたクシャーナ朝のもとでガンダーラ美術が栄えた。
このようにパンジャーブ地方は広い意味でのインドの歴史が始まった地域であるが、現在はその大部分がパキスタンに含まれている。
このようにパンジャーブ地方は広い意味でのインドの歴史が始まった地域であるが、現在はその大部分がパキスタンに含まれている。
シク教
パンジャーブ地方はその後も中央アジア・アフガニスタン方面からの勢力がしばしば浸透してくる。ガズナ朝、ゴール朝などがそれにあたるが、特に1526年にアフガニスタンからから北インドに入ったムガル帝国もその一つである。アクバル帝はパンジャーブ地方のラホールに一時都をおいた。またムガル帝国の時代、15世紀ごろからパンジャーブにはヒンドゥー教とイスラーム教を融合させたシク教が興り、ムガル帝国のアウラングゼーブのイスラーム教強制に対する抵抗を続け、ラホールを都に小王国を作ってその支配から自立していった。イギリスのパンジャーブ併合
17世紀以来、イギリスのインド植民地化が始まり、18世紀から19世紀にかけて、マイソール戦争、マラーター戦争などでイギリスはインド支配を拡大していった。インドで最後までイギリスの植民地化に抵抗したのがパンジャーブ地方であった。18世紀末にこの地のシク教徒の小王国を統合したランジット=シングがシク王国シク王国を樹立していたが、その死後、内紛が生じたのに乗じたイギリスはシク王国との全面戦争をしかけた。このシク戦争(1845~49年)の結果、シク王国は敗れ、パンジャーブ地方はイギリスに併合されることとなった。隣接するアフガニスタンとイランにロシアが進出していたので、イギリスにとっても重要視されたのである。現代のパンジャーブ
パンジャーブは“インダス文明”の舞台となった地方であり、「インド文明圏」の重要な地域であるが、1947年にインドの分離独立によってインドとパキスタンが成立したとき、パンジャーブ地方も二分された。大部分がパキスタンに組み込まれ、インダス文明の遺跡ハラッパーなどがあるのはパキスタンである。また北方のカシミール地方は、現在でもパキスタン、インド、中国の三国による領土紛争が続いている。文明の交差点であっただけでなく、政治的にも常に紛争の場であった。インドのパンジャーブ
インド側に属するパンジャーブ州は二言語州であったが1966年、インディラ=ガンディー政権はパンジャービー語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナー州として二分割し、それぞれ単一の言語州とした。そのうちのパンジャーブ州では経済的に豊かであったシク教教徒が自治権を要求するようになった。80年代になるとシク教徒の自治要求運動は無差別のテロ行為にまで発展、アムリットサールのシク教の総本山ゴールデン=テンプルはその拠点と化した。インディラ=ガンディー政権は、1984年6月にシク教徒の武力制圧に乗り出し、シク教徒300人が犠牲になった。シク教徒の過激派はインディラ=ガンディーに対する報復を決行、その年の10月に暗殺した。