ナーナク
16世紀初め、インドでヒンドゥー教を改革し、シク教を創始した宗教家。その思想はカースト制の否定に結びつき、インドの社会変革に影響を及ぼした。
ナーナク(1469-1538)はインドのパンジャーブでヒンドゥー教の改革を唱え、シク教を創始した人物。ヒンドゥー教とイスラーム教を融合しようとしたカビールの影響を受け、一神教信仰、偶像崇拝の否定などを説いた。シク教のでは彼を初代のグル(師)として尊敬している。インドにナーナクが登場した16世紀初頭は、ヨーロッパのキリスト教世界でのルター(1483-1546)とほぼ同じ時期である。洋の東西でいずれも宗教改革を進めたと考えれば、この二人は全く関係がなかったとしても興味ある事実である。
ナーナクの生涯
ナーナクは1469年4月15日に現在のパキスタンのタルワンディーという小さな農村のヒンドゥー教徒の家庭に生まれた。家は上位カーストに属し、父はイスラーム教徒の地主の会計官を務めていた。かれの誕生と生涯については同時代の人々の伝承が『ジャナム・サーキー』(誕生の物語、の意味)にまとめられている。それにはモーゼやイエス、ブッダ、クリシュナなどの生い立ちに共通の説話が含まれている。かれの幼児期はイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の対立が激しかったが、ナーナクは子供ではあったが、平和と友愛を広め、いずれの信者からも驚きと賛同で目で見られたという。特にナーナクが自ら上位カーストであることを否定し、人々の自由を束縛する慣習や儀式に反対したことは人々に感動を与えた。Episode ナーナクの奇談
ナーナクは8歳で村の学校に入れられたが、わずか10歳で形式的な教育に興味を失って学校を捨て「聖なるもの」を瞑想することに集中した。そのようなナーナクには奇跡を起こしたという伝承が数多く残されている。たとえば、ある日牛に牧草を食べさせながら瞑想にふけるうちに、牛が隣人の麦畑に入り、麦を食べてしまった。怒った隣人が村長に訴えたので皆で見に行ったところ、麦はすべて元通りになっていた。人々は驚き、神の奇跡だと認めた。またある夏の日、ナーナクは木の下で寝込んでしまい、太陽が真上で照らすまでになった。ナーナクがそれでも眠っていると、インドでもっとも恐ろしい毒蛇であるコブラが穴からはい出してきて鎌首をいっぱいにひろげ、ナーナクの顔を太陽の光から守ったのである。これを見た人が村の人たちに伝え、ナーナクは聖者と見られるようになった。<コウル=シング/高橋尭英訳『シク教』1994 シリーズ世界の宗教 青土社 p.36>
シク教の誕生
ナーナク自身はあるとき川に沐浴にゆき、形態がなく一切の事物を超越した〝絶対真理〟を体得し、その真理を人々に伝えることを天職とせよ、という声を聞く。かれは「ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒もいない」人類すべてが分かち合える〝唯一なる真理〟のメッセージを人々に送るため、妻と二人の子をおいて旅に出て、それ以後25年間、インド中だけでなく、イラクからサウジアラビアまでを巡り、イスラーム教の聖地メッカも訪れた。彼は他の宗教を否定するのではなくそれを超えた真理に従順になり、慈悲の心を持つことが大切であると説いた。かれの自由な、普遍的なメッセージに心酔した人々がその弟子となり、彼らは弟子を意味するシークといわれるようになり、そこからシク教という宗教名が生まれた。ナーナクは晩年はパンジャブに帰り、ラヴィ川の右岸で定住し、一つの村を起こして信者の共同体を作った。そこに集まった人々は誓願を立てたわけでもなく、僧や尼僧のような修行をしたわけでもなかった。シク教には僧院はなく、彼らの共同体は日常の職業に従事しながら互いに助け合う場所であった。その共同体生活のなかから、シク教では「平等・友愛・謙遜」という価値観が形成され、社会奉仕が重要な宗教的要素として発展していく。<以上、コウル=シング/高橋尭英訳『シク教』1994 シリーズ世界の宗教 青土社による>シク教の展開
シク教はパンジャーブで定着していったが、イスラーム教への回帰を強めたムガル帝国のアウラングゼーブ帝の時代になると、厳しく弾圧されるようになり、次第にその共同体も自己防衛から武装化していく。ナーナクの説く友愛は現実の政治情勢で維持は難しく、第10代のグル=ゴービンド=シングの時代から、明確な武装宗教団体へと転化していき、19世紀にはシク王国を樹立してイギリスと徹底的な戦いを展開する。シク教は現代においてもインドで一定の信者を有しており、その急進派はパンジャーブ独立運動と結びついてたびたびインド政府から弾圧を受けている。