ライヤットワーリー制
19世紀、東インド会社によって採用された、南インドにおける徴税制で、土地の耕作者である農民から直接徴税する方式。ザミンダーリー制より遅れて採用された。
東インド会社のインド統治下の税制の一つ。ライヤット(またはライーヤト)とは実際に土地を耕作している農民のことであり、彼ら直接耕作者に納税義務を負わせたのがライヤットワーリ制(ライーヤトワーリー制)である。1793年からベンガル地方におけるザミンダーリー制(地主を租税負担者として永代の土地税をとる)に対して、1814年以降、段階的に東インド会社が併合したマドラス(現在のチェンナイ)、ボンベイ(現在のムンバイ)など中部インドから南インドにかけての広範な地域で実施された土地税法である。ザミンダーリー制が「地主請負永代定額税制」であるとすれば、ライヤットワーリー制は「個別農民課税制度」ということができる。東インド会社が管区内の農民から地税を直接徴収したが、その地代は一定期間ごとに見直されることになっていた。<水島司他『世界の歴史―ムガル帝国から英領インドへ』14 中央公論社 p.333> → ザミンダーリー制
なお、ベンガル州のザミンダーリー制、マドラス・ボンベイ管区のライヤットワーリー制の他に、デリー周辺やシク王国から割譲されたパンジャーブ地方などインド北西部では、1822年から、村落を単位とした徴税法が取られた。ここでは村落の上位の農民が土地所有者団体を作り、徴税を請け負うという形を取った。下位の農民は特定の地主の小作人ではなく、村落に小作料を納め、土地所有者団体は東インド会社に対する納税で連帯責任を負わされた。<以上、小谷汪之『変貌のインド亜大陸』世界の歴史24 1978 講談社による>
ライヤットワーリー制の拡大
東インド会社は1806年のマドラス管区からこの税制を実施した。この税制では領主やザミンダーリー(地主層)をいっさい介在させず、個々の農民(ライヤット)から直接租税を徴収した。周辺には小領主が徴税権をもっていたところもあったが、それらはマイソール戦争、マラーター戦争などイギリスの征服が進むに従って順次消滅し、マドラス以外にもボンベイなどインド中央部の東インド領に拡大されていった。参考 ライヤットワーリー制の意義
ライヤットワーリー制は個々の農民に土地所有権を与えたことになるのでインド史上画期的な変革であったという評価があるが、それは必ずしも正しくない。その説では植民地化する前のインド社会では農民は土地所有権を持っていなかったことを前提としているが、事実は植民地化以前においても農民は個々に占有した土地で農業経営を営み、租税を支払う限り土地から追い出されることなく、相続し売買することが可能であった。従ってこの制度はすでに存在した農民的土地占有権を法認したにすぎない。その一方で税額は過去の諸王国で徴収されていた額を下回らないこととされ、農民にとって依然として過酷なものであった。それだけでなく東インド会社は一律に厳しい取り立てを行い、場合によっては拷問も行っている。そのため借金の返済のためや売却によって所有権を手放さざるを得なくなった農民が多くなった。このライヤットワーリー制も、ベンガルにおけるザミンダーリー制と同じように、本国イギリスを富ませる財源とされ、その結果、インドの農民の分解と没落(賃金労働者化)を進めたというのが歴史的意義である。なお、ベンガル州のザミンダーリー制、マドラス・ボンベイ管区のライヤットワーリー制の他に、デリー周辺やシク王国から割譲されたパンジャーブ地方などインド北西部では、1822年から、村落を単位とした徴税法が取られた。ここでは村落の上位の農民が土地所有者団体を作り、徴税を請け負うという形を取った。下位の農民は特定の地主の小作人ではなく、村落に小作料を納め、土地所有者団体は東インド会社に対する納税で連帯責任を負わされた。<以上、小谷汪之『変貌のインド亜大陸』世界の歴史24 1978 講談社による>
参考 もう一つのライヤットワーリー制の説明
(引用)ライヤットワーリー制というのは、村の土地を数百から数千の地片に区画し、それぞれの地片の税額を地味や潅漑条件、都市市場からの距離などを参考にして査定し、その査定額を支払う納税担当者をライヤット(「農民」という意味)として認定するという制度である。ここにライヤットとしてイメージされたのは、基本的には自ら耕作を営む自営農であった。したがって、国家的土地所有の下で、自ら耕作に従事する農民が地税を納入し、その限りにおいて土地保有を認めるという姿、国家と自営農の間には何の中間階層もなく、国家と自営農との単純簡潔な土地制度構造、これがライヤットワーリー制の理想としたものであった。<佐藤正哲/中里成章/水島司『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』1998 中央公論社 p.547>しかしインド村落にはすでに階層制が強まっていたこと、カースト制が反映していることなどから、多くの村では上級カーストの構成員である村落支配層に土地保有権が与えられ、それ以外の多数の村民は排除されるという現実があった。同時に在地社会が無数の地片に切りはなされたため、在地社会自体が崩壊してしまった。「在地社会も村落も消え、無数の地片の単なる集合体と化した生活空間で人々が生きるという個別化された世界が、植民地化された南インドであった。」<水島司他『同上書』 p.550>