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団練

清朝後期の18世紀末ごろから農村部に出現した武装集団。白蓮教徒の反乱を機に自警団として始まり、後に漢人有力官僚によって郷勇に組織され、太平天国の鎮圧の主力となった。

 清朝は18世紀に最盛期を迎え、その前の17世紀と後の19世紀では人口が4倍(1億から4億へ)と急増した。銀が中国に流入したことによって中国経済は大いに潤った。しかし経済の発展は同時に貧富の差を増大させていった。しかし清朝の統治機構は、人口急増に伴う社会の変化に対応することは不十分であった。その危機が最初に明白になったのが、18世紀末の白蓮教徒の反乱であった。
(引用)いずれにせよ、権力は社会を把握、統制しきれず、官庁は事案の処理機能を失い、民間ではいつしか、物理的な実力によってしか紛争が解決されえないような情況になった。極言すれば、政治や秩序などはほとんど存在しない、暴力のみがまかり通り弱肉強食の社会と化していたのである。それが18世紀中国の平和と繁栄の末路に他ならない。<岡本隆司『曾国藩』2022 岩波新書 p.8>

白蓮教徒の反乱

 1796年に始まった白蓮教徒の反乱は、それまでの清朝の繁栄の反動ともいうべき重大事件であった。人口増大に伴う移動により、地域内で移入民ともとの住民の間での対立が起きると、立場の弱い移入民は団結して既存の権力・体制に反抗するようになり、その際に地域の既存権威からは邪教と見なされるような宗教的秘密結社をつくり、精神的紐帯とするようになった。
 白蓮教もその一つで、湖北省・四川省・陝西省三省の境界である山岳地帯でさかんになった。この地域はもともと生産力が低く、人口増加に伴って他地域から移住してきた移入民が多く、彼らは当局の目が届きにくいという行政区画の境界で、白蓮教信仰で結びついて結社をつくり、蜂起するに至った。
 清朝政府は白蓮教徒の反乱に対し、まず本来の清朝の現地の警察力である緑営に鎮圧させようとしたがほとんど役に立たず、さらに派遣された軍隊である八旗も戦力にならなかった。反乱軍と戦ったのは、地元の村落の中に生まれた団練という武装組織だった。団練の働きによって、ようやく1804年、十年近くもの時間をかけた上で、ようやく反乱は鎮圧された。

団練の発生

 団練は秘密結社が起こした反乱に対する農村の自衛組織で、自警団のようなものである。その中心となったのは郷紳といわれる地元の有力な地主層であり、彼らは一族を武装させ、団に結集し、訓錬をほどこした。従って地主階級がつくった血縁的な武装集団が、地域的に結合した組織と言うことができる。
団練から郷勇へ 反乱が起こった地域で既成の秩序を守ろうとした住民は、一種の自警団を組織し、武器をもち、訓錬をほどこした。それを「団練」といった。この団練の働きで1804年に白蓮教徒の反乱が鎮圧される、反体制的な秘密結社から郷土を守るために武装することが常態化し、各地の村落にも広がっていった。このように、白蓮教徒の反乱が団練を主力とする民間武装によって鎮圧されたことは、権力だけが武力を独占する治安形態を大きく変化させた。その情勢の中で、武装化したローカルな社会集団である団練と秘密結社が地域の秩序を巡って対立するという図式になっていった。団練と秘密結社の違いは、前者が政権に従順であるのに対し、後者が反抗的であると言うだけであり、やがて清朝政権の存続もその両者の力関係で決まってくる。秘密結社の最大勢力が太平天国であり、団練を基盤としてより大規模に組織されたのが郷勇である。
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岡本隆司
『曾国藩』
2022 岩波新書