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郷紳

中国の明清時代、農村の地主として有力になった階層。科挙に合格して官吏となることで免税特権を得て富裕となり、地域支配層を形成した。清朝末期には公認の自衛軍事力として郷勇を組織した。

 きょうしん。、清時代に農村における地主で豊かな財力を持ち、地域での名望家として力を持っていた人を言う。多くは科挙の合格者として官途につき、引退後は故郷に隠棲した人であり、知識人としても活動し、読書人とも言われ明の文化を担う存在であった。宋代の士大夫に相当する。イギリスのジェントリーにも郷紳の訳語をあてるが、たしかににかよった存在である。
 明から清にかけて、地方の社会の支配階層となり、また小作農からの小作料で生活していたので、しばしば抗租運動の襲撃の対象となった。

郷紳とその社会に及ぼす作用

(引用)郷紳とは読んで字の如く、在郷の搢紳(しんしん)、すなわち地方在住の知識階級にして官位を持ち、同時に大地主、又は資産家を兼ねたものであるが、この階層が社会に及ぼす作用は三つの面に要約することができる。
 第一は郷曲に武断することであり、これは土地の弱小民衆の上に権力又は財力を以て影響を及ぼし、意のままに動かす作用を言う。ここで注意しなければならぬのは、この作用は必ずしも常に地方民衆を抑圧するとは限らず、時には民衆の希望を代弁する場合もあったのである。
 第二は官政を把握することであり、郷紳はその実力によって、地方官庁の政治に圧力を加え、政治方針に干渉したり、その実施に異議を唱えたりすることであった。これもその結果がいつも害毒を地方に流すとばかりは限ったわけではない。ずいぶん、弱きを助け強気を挫くといった義侠的な行動もあった。
 第三には更に進んで遥執朝炳、遠方に居ながら中央政府の方針を動かすに至るが、これはどんなことであろうか。このことばは、先には東林の際に(顧憲成に)、後には復社の張溥(ちょうふ)の場合にも用いられている。<宮崎市定『中国史の名君と宰相』2011 中公文庫 p.224-225 読みやすいように改行した。>
 宮崎市定氏が、郷紳が地方にあって中央の政治に関わった例としてあげたのが、東林党(東林派)の顧憲成と復社の張溥であり、特に後者について、この論文は詳しく触れている。復社(ふくしゃ)というのは宦官の政治介入に対抗して官僚が結成した結社の一つで、有名な東林党を継承すべく、明末の崇禎帝の時の1628年に、張溥が蘇州で結成し小東林ともいわれた。その指導者張溥は科挙に合格して中央政府の官僚となったが、やはり宦官派と対立し、崇禎帝の信任も失ったため蘇州で復社を結成し、多くの著作を通じて全国に結社網をつくり、一時同派による内閣を成立させたが、明末の動乱の中で権力を失った。宮崎氏は張溥の文章は独創性はないが、清代の考証学の先駆的な面もあり、なによりも情報網を組織して中央政治にも影響力を与えるジャーナリスト的な活躍があったと指摘している。

清代の郷紳

 郷紳の登場は明代の中期であるが、清朝支配下においても漢人社会で郷紳は地域エリート層として支配の中核を担った。清代の科挙で地域の予備試験である童試に合格して生員となると在地エリートとして郷紳に加わることが出来た。
(引用)生員ならまったく地元の名士といった趣、中国史上にいう「郷紳」、すなわち在地エリート・名望家の大多数をしめる人々で、これより以後でも、百三十万人に満たなかったから、四億を優に超えた全人口の0.3パーセントくらいだった。生員は予備試験をへて、科挙の本試験を受けられる。そこから合格してゆくのが、また容易ではなく、実際に挙人(省ごとに行われる郷試の合格者)以上の学位を有した人々は、生員の十分の一、十万人あまりにすぎない。毎回の郷試の合格倍率は、およそ百倍という狭き門だった。<岡本隆司『曾国藩』2022 岩波新書 p.27>
 清朝の動揺期となると、白蓮教徒などの宗教的秘密結社の反乱から農村を自衛するため武装した団練を自己の財力で結成して訓錬を施すようになり、さらに太平天国が決起すると、有力漢人官僚である曾国藩は湖南地方の郷紳に呼びかけて団練を組織化し、公認の軍事組織である湘軍(湘勇)を組織した。後に同じように李鴻章淮軍(わいゆう)を編制した。これらはいずれも地域エリート層である郷紳をその中核としており、郷勇と総称される。
 このように、郷紳は清朝末期社会において、民衆反乱の鎮圧の主力となり、清朝政権を支える重要な存在であった。さらに日清戦争後の漢人官僚が主導した洋務運動をも支えていたが、先進資本主義国による中国分割という危機が進行する中で次第にナショナリズムが台頭すると、一部には清朝を倒して国民国家の形成を目指す勢力となっていくものも現れた。
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宮崎市定/礪波護編
『中国史の名君と宰相』
2011 中公文庫