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郷勇

漢人有力者が組織した私兵集団。太平天国の乱の鎮圧で、清朝の官軍に代わって大きな働きをし、その鎮圧の主力になった。代表的な例に曾国藩の湘勇、李鴻章の淮勇がある。

 清朝は満州を支配していた時代以来の八旗と中国を征服してから漢人を組織した緑営という正規の軍事組織があったが、19世紀には形骸化し、実力を無くしていた。1796年から始まった白蓮教徒の反乱においても緑営、八旗はそれを鎮圧することが出来ず、武装した秘密結社と闘ったのは、現地の村落で自衛のために武装した集団である団練であった。

団練から郷勇へ

 団練は地元の有力者(郷紳)が組織し、団員に武器を持たせ訓錬を行う武装組織であって、その結合は主として血縁的なつながりにより、活動範囲はその地元一箇所にとどまる自衛組織と言える団体であった。それに対し、郷勇(郷軍)は清朝の中央または地方の官吏という公的な地位にある有力者が、資金力と人的つながりにより、団練などをもとに義勇兵をつのり、より高度に武装し、より広い範囲で治安維持に当たる自衛組織が郷勇であった。清朝中央は、郷勇が義勇兵を募集して活動することを公認し、むしろ、八旗や緑営に代わって反乱を鎮圧する軍事力として利用しようとするようになった。

湘勇と淮勇

 郷勇は、清末の太平天国の鎮圧に正規軍に代わり活躍するようになる。最も活躍したのが曾国藩の組織した湘勇(湘軍)であった。また李鴻章が湘勇をまねて組織した淮勇(淮軍)も次第に有力となった。それ以外にも郷勇とされる私兵集団には、曾国藩と同じ湖南出身の江忠源の「楚勇」などがある。

太平天国で活躍

 これらは近代的な装備を持つが、本質的には有力漢人官僚の私兵として、地縁的・血縁的な結びつきが強く、近代的な軍隊=国民兵ではなく、傭兵的性格が強かった。1851年、太平天国が蜂起して北上を開始すると、この動きを清朝の正規軍である八旗、警察力である緑営は抑えることができず、南京を占領し公然と清朝政府からの独立を宣言する事態となった。さらに太平天国軍が北京への進撃の動きを見せると、清朝政府は苦慮し、漢人官僚の曾国藩に太平天国軍に当たることを命じた。
 曾国藩は地縁のある湖南地方の団練を組織して、より広範から義勇兵をつのり、太平天国支配地域に出動できる軍隊をつくり、それを出身地にちなんで湘勇(湘軍)と称した。この一種の私兵集団ではあるが公的な存在となった軍隊を総称して郷勇という。曾国藩の湘軍は太平天国軍との死闘を繰り返し、一時は敗北を喫しながらも、最終的には太平天国軍の内紛もあって、1964年にその首都南京を奪回し、指導者洪秀全を自殺に追いこんで勝利した。

北洋軍から新軍へ

 太平天国と同時に起こったアロー戦争後には、李鴻章ら漢人官僚による軍備の近代化を図る洋務運動が進められたが、隣国の日本が明治維新によって政治・経済・軍事の全面的な近代化に転換したのに対して、清朝の改革は不徹底に終わった。1884年の清仏戦争、1894年の日清戦争などの対外戦争においても、正規軍以外にこれらの郷勇が動員された。しかし郷勇は内乱鎮圧では大きな力を発揮したが、対外戦争では次第にその限界が明らかになっていった。特に日清戦争では、李鴻章の組織した淮勇(淮軍)の系統である北洋軍北洋艦隊が陸海にわたって日本軍と戦ったが、近代的な装備と軍規をもつ日本軍に敗れることとなり、その後は清朝においても近代的な国民軍の編制が急がれることになった。
 日清戦争後、袁世凱新建陸軍(新軍)を組織して軍備の近代化にのりだした。1900年の義和団事件の混乱の後、北洋大臣となった袁世凱は北洋軍を掌握して軍事力の独占に向かい、1911年の辛亥革命ではその軍事力を背景に孫文と争って権力を奪取、その兵力である北洋軍は軍閥化していった。