日米修好通商条約
1858年、日本(江戸幕府)とアメリカの間で締結された、通商・貿易に関する条約。日本側が治外法権を認め、関税自主権を喪失した、不平等条約であった。
アメリカ合衆国は1853年、ペリー艦隊を日本に派遣して江戸幕府に開国を迫り、翌1854年、日米和親条約を締結して日本に開国を認めさせた。次いで、実際の通商に関する条約交渉のため、アメリカ総領事ハリスが派遣され、江戸幕府大老井伊直弼の間で交渉が開始された。その結果、1858年7月に合意に達し、日米修好通商条約が締結された。これによって日本はアメリカとの通商(貿易)を開始し、両国間の貿易が開始されることとなった。なお、関税率などについては別に貿易章程で定められた。
1858(安政5)年には、この日米修好通商条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスともほぼ同様の通商条約を締結したので、それらを総称して安政の五ヵ国条約という。
明治政府は1871年に清国との間で日清修好条規を締結したが、これはに国間対等な条約であった。しかし1876年、江華島事件を口実に朝鮮との間で締結した日朝修好条規(江華島条約)は、朝鮮に対して領事裁判権を認めさせ、関税自主権を認めない不平等な内容であった。
1858(安政5)年には、この日米修好通商条約に続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスともほぼ同様の通商条約を締結したので、それらを総称して安政の五ヵ国条約という。
修好通商条約の主な内容
- 神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港。
- 江戸・大坂の開市 開港場と同じく商取引を認める。
- 外国人居留地の設置、領事裁判権を認める。
- 自由貿易の原則。関税率は協定税率とする。
- 公使を江戸に、領事を開港地に駐在させる。
不平等条約
領事裁判権により治外法権を認めたことになり、開港場におけるアメリカ人の犯罪に対する裁判権を日本は放棄することとなった。また、自由貿易とは言いながら協定関税とされたため関税自主権を喪失することとなり、この二点においてこの条約は不平等条約であった。明治維新で江戸幕府が崩壊した後も、新政府にはこの条約を継承したので、不平等条約の改正、いわゆる「条約改正」の課題は、明治政府の悲願となった。明治政府は1871年に清国との間で日清修好条規を締結したが、これはに国間対等な条約であった。しかし1876年、江華島事件を口実に朝鮮との間で締結した日朝修好条規(江華島条約)は、朝鮮に対して領事裁判権を認めさせ、関税自主権を認めない不平等な内容であった。
条約勅許問題
江戸幕府の大老井伊直弼は、安政の五ヵ国条約を、幕府の権限として調印に踏み切った。それに対して、条約調印に反対した水戸藩の徳川斉昭を初めとする尊攘派の志士は調印は天皇(当時は孝明天皇)の許可(勅許)が必要であると主張し、幕府を批判した。また二市五港の開市・開港によって貿易が始まると、生糸などを中心とする輸出が急増して国内で品薄が生じて物価が騰貴し、また金銀比価の違いから金が海外に流出し、洋銀が大量に出回ることによって経済が混乱した。そのため、江戸や横浜で外国人を襲撃する攘夷運動が盛んになり、幕府はその取り締まりに手を焼くことになった。井伊直弼は、尊王攘夷運動を厳しく弾圧する「安政の大獄」を断行したが、1860年桜田門外の変で尊攘派のテロに倒れた。万延の遣米使節
江戸幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため、1860(万延元)年に新見正興を遣米使節正使として派遣した。新見正興ら使節はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗船し、随行した勝海舟ら幕臣はオランダから購入した咸臨丸を操縦して、初めて自力で太平洋を横断した。南北戦争のため、アメリカが後退
日本を開国させることに成功したのは、1853年にペリーを派遣し、翌年日米和親条約を締結したアメリカであった。またアメリカは、1858年に日米修好通商条約を締結して、日本との貿易を他国に先駆けて開始した。それが可能であった背景には、1953年から56年まで、イギリス・フランス・ロシアがクリミア戦争に謀殺されていたことが影響していた。またアジアでは中国での太平天国の乱、アロー戦争、インド大反乱が続いていたこともイギリス・フランスが日本に力を注げなかった背景であった。ところが、そのアメリカは1861年から南北戦争へと突入したため、1860年代の幕末期日本の外交的主導権をイギリス・フランスに奪われることとなった。条約改正
江戸幕府が締結したアメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランスの5ヶ国との修好通商条約(あわせて安政の⑤ヶ国条約という)は、いずれも領事裁判権(治外法権)を認め、関税自主権が無いという点などで不平等なものであったため、江戸幕府からそれを継承した明治政府にとって、条約改正は最も重要な外交課題となった。条約改正のための努力は、1871(明治4)年の岩倉具視を大使とする遣外使節団に始まり、寺島宗則・井上馨・大隈重信・青木周蔵といった外交担当者がアメリカを始めとする列国と交渉を重ね、紆余曲折が続いた結果、まず日清戦争の起こった1894年(明治27年)11月に、陸奥宗光外相主導により日米通商航海条約を締結、イギリスなど他国とも同様の条約を締結して、領事裁判権の撤廃に成功した(実施は99年)。残る関税自主権の回復は、日露戦争後の1911(明治44)年、小村寿太郎外相のとき、日米通商航海条約の改定(新日米通商航海条約)によって達成された。ほぼ明治末年に条約改正が達成できたことは、明治日本の象徴的な出来事だった。日米通商航海条約の破棄
なお、日米間の通商関係は、1930年代に日本が中国大陸に進出し、中国に関する日米の経済的利益が対立し、さらに1937年に日中戦争が勃発したことによって、1939年7月、アメリカ合衆国が日米通商航海条約の破棄を通告し、1940年に失効して中断した。