アルザス(エルザス)/ロレーヌ(ロートリンゲン)
現フランス領のライン中流の西岸。中世では神聖ローマ帝国の領邦があったので住民はドイツ系が多かったが、次第にフランス側のナショナリズムが強まり、17世紀以降、長く領有権を争った。18世紀半ばまでにフランス領となり、普仏戦争でドイツ領となったが、第一次世界大戦によってフランス領に編入され、現在に続いている。
現在のアルザスとロレーヌ
いすれも現在はフランス領となっており、ライン川を挟んでドイツと接しているアルザス地方は、中心都市がストラスブール。その西側に隣接し、ベルギー・ルクセンブルク・ドイツと接しているのがロレーヌ地方で、中心都市はメッス。かつてロレーヌ公国(ドイツ名ロートリンゲン公国)と言われた時代の首都はナンシーだった。
フランク王国が分裂したメルセン条約では、東フランク=ドイツの領土とされ、9世紀にドイツ王が神聖ローマ帝国と称するようになると、その版図に含まれたが、その後、西フランク=フランスの歴代の王はこの地の領有権を主張するようになった。
中世をつうじて、神聖ローマ皇帝位に選出されたハプスブルク家が、アルザスとロレーヌの地にさまざまな権利を有するようになっていった。14~15世紀の百年戦争を通じて主権国家としての統合を強めていったフランスは、生産力の豊かなアルザス・ロレーヌにもその領域をのばそうとするようになった。
17~18世紀、ヨーロッパの覇権を争ったハプスブルク家とフランスのブルボン朝は、絶対王政による国家統合を先に果たしたブルボン家がまず優位に立ち、その過程で、アルザス地方はルイ14世の時の1697年に、ロレーヌ地方はルイ15世の時の1766年に、それぞれフランス王国に併合された。その経緯をまとめると次のようになる。
フランスのアルザス領有
17世紀の三十年戦争ではルイ13世とリシュリューの積極的な介入策によってフランスが占領、1648年のウェストファリア条約でライン左岸のアルザスと、ロレーヌの一部分の原則的領有(ハプスブルク家の持っていた諸権利を行使すること)が認められた。1683年、オスマン帝国軍が第2次ウィーン包囲を行った際には、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の来援要請に応えたロレーヌ公シャルル(ロートリンゲン公カール)は出兵し、オスマン軍撃退の主力となった。さらにオスマン帝国軍を追撃したカールは、オーストリア竜騎兵を指揮して次々と勝利し、1686年にはブダペスト奪還に成功した。
ルイ14世は、「自然国境」説を唱えて、ライン西岸全体の領有を主張し、1688年、ファルツ選帝侯国の王位継承問題に介入して、ラインラントへの侵略戦争を開始し、9年にわたるファルツ戦争(アウクスブルク同盟戦争)を続けた。その講和条約である1697年のライスワイク条約によって、シュトラースブルク(ストラスブール)を中心としたアルザス地方を領土として併合した。
フランスのロレーヌ領有
ロレーヌ(ドイツ名ロートリンゲン)地方は神聖ローマ帝国の領邦の一つロレーヌ公国として、オーストリア=ハプスブルク帝国の一部であったが、ルイ15世は先代のルイ14世に続き、フランスへの併合を進めようとした。ルイ15世がポーランド出身の王妃の父を強引にポーランド国王にしたことにオーストリアが反発して、1733年にポーランド継承戦争が始まると、フランス軍は神聖ローマ帝国に属していたロレーヌ公国を占領した。しかし、ロシアがオーストリア支援に動いたので戦況不利とみたルイ15世は講和を急ぎ、ポーランド国王を退位させてロレーヌ公とすることで妥協しようとした。このときロレーヌ公だったフランツは、1736年にオーストリア=ハプスブルク家のマリア=テレジアと結婚していたのだが、ルイ15世はその結婚に反対して圧力をかけていた。フランツはマリア=テレジアとの結婚をヨーロッパの大国フランスに認めてもらうために、やむなくロレーヌ公の地位を明け渡すことにした。ルイ15世はそこに義父である前ポーランド王を当て込んだのである。ロレーヌ公の地位を失ったフランツは、翌年、イタリアのトスカーナ大公国のメディチ家が断絶したので、トスカーナ大公の後釜に入る。なんともすさまじい玉突き現象だ。なおこのフランツはマリア=テレジアの夫としてウィーンに滞在し、1745年に神聖ローマ皇帝に即位しフランツ1世となる(もっとも実権は皇后のマリアテレジアが持っている。やがてマリー=アントワネットの父となる人)。ロレーヌはどうなったかというと、前ポーランド王のロレーヌ公は一代限りで1766年に亡くなり、取り決めによってフランス王国に併合された。
アルザス・ロレーヌのフランス化
このようにアルザスとロレーヌがフランス領になった経緯は、フランス人が移住したのではなく、フランス王(ルイ14世、ルイ15世)の領土的野心と駆け引きによって編入されたものだったので、その住民は人種的にはドイツ人であった。しかし、次第にフランスの文化が浸透し、しかもフランス革命・ナポレオン時代を通じて近代的なフランス・ナショナリズムが高まっていくなかで、その住民もフランス人であるという自覚を持つようになった。後にフランス国歌となる“ラ=マルセイエーズ”がうまれたのもアルザスのストラスブールだった。アルザス・ロレーヌ/エルザス・ロートリンゲン
1871年、普仏戦争でフランスからドイツに割譲された。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で、フランス領にもどり、現在にいたっている。
アルザス・ロレーヌはフランス革命・ナポレオン時代を通してフランス領として続き、ウィーン会議でもかろうじてフランスは領有を維持したが、第二帝政末期にナポレオン3世が、普仏戦争に敗れ、講和を急いだ臨時政府が1871年5月のフランクフルト講和条約で、両地方の大部分をドイツ帝国に割譲した。ドイツはこの地の鉄と石炭で、産業革命を達成することになる。
普仏戦争後の状況
ビスマルクはその豊かな地下資源と、南ドイツに対する防衛の見地から、アルザスとロレーヌの割譲を要求し、それを実現し、それは彼の大きな勝利とされたが、この地に対するフランスの奪還を目指す思いは強く残り、その後のドイツ・フランス間の緊張の要因となった。Episode 『最後の授業』の真相
19世紀後半のフランスの作家アルフォンス=ドーデの『月曜物語』の冒頭の一編「最後の授業」は、普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美しい言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、最近はすっかりみられなくなってしまった。それは、このドーデの作品の虚構が明らかになって来たためである。実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語であったという。つまりドーデの作品は「対ドイツ報復ナショナリズムのお先棒を担ぐイデオロギー的作品」だとされるようになったのである。<谷川稔『国民国家とナショナリズム』1999 世界史リブレット 山川出版社>第一次世界大戦後にフランス領に戻る
フランスはその奪還をめざし、第一次世界大戦でドイツが敗北したことによって、ヴェルサイユ条約にその領有権をフランスに戻すことを認めさせた。このように、常にフランスとドイツの領土問題で係争地とされ、複雑な変遷を遂げたてきたが、現在はフランス領として続いており、中心都市ストラスブールは重要な工業そして発達しているとともに、ヨーロッパ連合(EU)の欧州議会本会議場が置かれている。