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ジャン=ジョレス

フランス社会党結成にあたった社会主義者。ドレフュス事件ではドレフュス派の中心人物の一人として活動した。一貫して反戦、平和と帝国主義・植民地主義反対を貫いたが、1914年7月、第一次大戦直前に暗殺された。

ジャン・ジョレス

Jaen Jaures 1859-1914
Wikimedia Commons

 ジャン=ジョレス Jean Jaures 1859-1914 は、フランスの第三共和政の時期に活躍した社会主義者。1894年に起こったドレフュス事件では、ドレフュスを擁護する側で活躍した。『ユマニテ』紙を創刊するなど言論界で活動した後、1905年のフランス社会党(統一社会党)結成の中心人物として動いた。
 ジョレスの社会主義は暴力革命の否定など、穏健で理想主義的なものであったので、社会党内のマルクス主義派とは対立した。また戦争には一貫して反対であったが、そのために第一次世界大戦直前の1914年7月31日、パリの喫茶店で狂信的な国粋主義者によって暗殺されてしまった。その後社会党も戦争支持に転換、さらに大戦後の1920年にはマルクス主義派が脱退してフランス共産党を結成することとなる。

ドレフュス事件とジャン=ジョレス

 ジャン=ジョレスが最初に疑問を感じたのは、1894年、ドレフュスが軍事裁判で有罪となったにもかかわらず、なぜ死刑でなく国外追放なのか、ということだった。国家反逆罪であれば死刑でもおかしくないのに、軍は何故国外追放に留めたのか、という疑問だった。その後、ピカール大尉の努力などにより、ドレフュスが書いたとされる証拠書類が偽造されたもので、軍はそれも知っていたという事実が明るみに出て、ジョレスはドレフュスの無罪を確信するようになった。1898年1月にエミール=ゾラが「私は弾劾する!」を発表すると、国会議員だったジョレスは、議会で軍部を追究し始めた。同年5月に行われた国会議員選挙でもジョレスはドレフュス事件を選挙キャンペーンの中心に据えて訴えた。しかし、国民は軍の宣伝であるユダヤ人将校がスパイだったということを疑わず、世論はドレフュス有罪に傾き、ジョレスは落選した。
 議場での発言が出来なくなったジョレスは、8月、新聞「プティット・リュプブリック」に『証拠』という長文の論説を載せ、言論人としてドレフュス無罪を訴えた。世論との戦いを続けるジョレスは、まず社会主義者に呼びかけた。社会主義者の中にはドレフュスをブルジョワ階級に属する軍人であることから、支援を躊躇する人々が多かったからだ。ジョレスはこの冤罪をゆるすことは、権力の不正を見逃すことであり、労働者階級にとっても許すことは出来ない、と訴えた。フランス社会はドレフュス派と反ドレフュス派にわかれ、ゾラも陸軍の名誉を毀損したとして訴えられ、有罪にされることをおそれイギリスに亡命した。
 ジョレスはドレフュス裁判の再審と、ゾラの支援を訴え、クレマンソーや多くの文化人と共に発言を続け、その言論はフォレフュス派の中でももっとも鋭く、ようやく政府を動かして1899年、再審を実現させた。しかしその結果は再び有罪判決としながら、特別恩赦でドレフュスを解放するというものだった。ドレフュスは出獄したが、罪人という汚名を晴らすことは出来なかった。ジョレスはドレフュスの名誉回復の運動も進め、1906年に名誉回復が実現した。その後も「アクション・フランセーズ」など、反ドレフュス派が母体となって生まれたナショナリスト、軍と保守派と結びついた右派勢力は、死去したゾラの遺灰をパンテオンに埋葬することに反対するなどの活動を続けていた。ジョレスは国会議員に復帰して、ゾラの名誉を回復するなど、右派の潮流との戦いを続けた。

世界大戦直前に暗殺される

 20世紀に入り、フランスとドイツの関係は二度に亘るモロッコ事件で悪化し、フランス国内でも反ドイツ感情が強まった。1913年には兵役期間が2年から3年に延長されたのも、開戦やむなし、という世論の中で認められたものだった。しかし、社会主義者・労働組合は戦争反対、ドイツとの協調を主張し、ジョレスもその先頭に立っていた。ところが1914年6月28日サライェヴォ事件が起きると、一気に対独開戦への動きが強まった。ジョレスは、遠いバルカンの紛争に介入して戦争を始めるべきではない、ドイツとも協調出来る余地があるとして開戦反対の世論を喚起すべく奔走した。しかし1914年7月31日、パリのカフェ・クロワッサンで右翼青年によって暗殺されてしまった。翌日、フランスは総動員令を発して、8月3日にドイツの宣戦布告によりフランスは第一次世界大戦に参戦した。
 ジョレスと共に反戦を主張していた社会主義組織は、多数が参戦の支持に転じ、挙国一致してドイツと戦えという怒号の前に、少数の反戦派の声はかき消されていった。