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人民党/ポピュリスト党

1892年、アメリカの西部・南部の農民を中心に組織された政党。二大政党の既存権力に対する不満を吸収し、最初の全国的第三政党となる。政党としては20世紀に入り衰退したが、大衆的支持を受けて政治に参入する運動は現代のポピュリズムの先駆とされている。

 南北戦争後のアメリカは北部主導の工業化が進み、19世紀末に重化学工業の段階になるとともに独占資本の形成が進み帝国主義の段階に達した。アメリカの農業も世界市場での競争に晒されることになり、国際的な過剰生産による価格下落に悩み、穀物輸送の鉄道運賃の高騰に苦しむようになった。そのような西部・南部の農民は産業の発展から取り残されて貧窮化が進み、また東部工業地帯でも資本家層と労働者の貧富の差が広がった。資本主義の発展によって犠牲となった意識を持つ農民層や労働者層は、従来のアメリカの共和党民主党の二大政党を社会の上層部の利益代表と見なすようになり、それらに対抗する第三党の結成が模索されるようになった。1880年代から農民運動の組織化が始まり、1890年には西部・南部の農民連合が初めて結成され、それを母体にアメリカの政党政治の二大政党体制に割り込む第三党が出現することとなった。

人民党の結党

 1892年7月、ネブラスカ州オマハで、農民連合を始めとして、労働者組織やいくつかの政治団体の代表が集まり、人民党 People's Party を結成し、第一回大会を開催した。人民党は、ポピュリスト党(Populist Party)ともいわれ、全国的な最初の第三党として活動を開始した。7月4日のアメリカ独立記念日に、人民党第1回大会の場で採択された「オマハ綱領」は次のように述べている。
(引用)われわれは道義的、政治的、物質的崩壊の瀬戸際にある国のただ中において会している。腐敗は、投票箱、州議会、連邦議会を覆い、判事の法服にまで及んでいる。人民は意気消沈させられている。……新聞はおおかた買収されるか、口封じされている。世論は沈黙させられている。企業は疲弊し、家は抵当に入り、労働者は貧窮にあえぎ、土地は資本家の手に集中している。……ごく少数の人々の、人類史上類を見ないほどの巨大な富を築くために、何百万もの人々の労苦の成果が大胆にも盗み取られている。……われわれは、この国で圧制、不正、貧困を最終的に消滅させるために、政府の権力、言い換えれば人民の権力が、賢明なる人民の良識と経験の教訓が許すかぎり、速やかにかつ広範囲に拡大されるべきであると信ずる。(下略)<歴史学研究会編『世界史史料7』2008 岩波書店 p.266>

人民党の主張

 続いて具体的要求項目として、基本的生産手段である土地の私有を前提に、潤沢な通貨の供給、銀貨の鋳造の自由、累進所得税、郵便貯金制度、鉄道・電信・電話の公有公営など、当時としては急進的な社会改革を含んでいた。
(引用)共和・民主の二大政党に対抗するこの第三政党の政治運動は、勤労民衆による全国政治権力の奪取をめざしてアメリカ社会をゆるがした。人民党は国家権力が金賢勢力によって掌握されているという現状認識に立ち、それを人民の手に取り戻すべきことを唱えた。人民とは生産者階級であり、額に汗して働き富を創造する人びとの総称であった。彼らは労働者階級に共感を示し、労働者と連帯して政治機構変革の運動を高めようとした。そして十九世紀的な消極国家論を脱して、国家権力を人民が握って国家の機能を拡大し、人民の福祉のための積極的国家にしようと主張したのである。また彼らは国際的な金融勢力の陰謀である金本位制のもとで人民が搾取されているとし、銀貨の増発によって農産物価格を引き上げ、繁栄を取り戻すべきことを唱えた。<野村達朗『大陸国家アメリカの展開』世界史リブレット32 1996 山川出版社 p.79-80>
人民党の限界 人民党は南部の黒人に対して当初は共に闘うことを呼びかけていたが、民主党と接近するにつれてその主張に従い黒人差別を容認するようになった。1896年、プレッシー対ファーガスン裁判で最高裁が「隔離しても平等」という判決を出し、黒人分離政策を合法化した背景には人民党の容認もあった。また、指導者の中にはリース夫人という過激な女性もいたが、女性参政権には否定的であった。つまり、人民党は黒人と女性を排除した「南部白人のための改革」を掲げた政党に止まり、大きな革新的潮流を作ることはなかった。

人民党の活動

 人民党(ポピュリスト党)は1892年の大統領選挙では、農民運動のリーダーであり南北戦争での北軍の将軍だったウィーヴァーをたて、約100万票を獲得、選挙人票でも22票を得て共和党・民主党の二大政党に不満を持つ層の支持をえて、第三党として存在を際立たせた。しかし、当選は民主党のクリーヴランドであった。
 1893年には世界的な恐慌の波がアメリカにも及び、不況が深刻になるとピッツバーグのカーネギー製鋼工場のストライキやシカゴのプルマン寝台車両工場でのストライキが続き、資本と労働者が厳しく対立した。民主党クリーヴランド政権は軍隊を動員してストライキを弾圧、労働者は追い詰められたが、人民党は農民の支持を優先して労働運動を取り込むことをしなかった。
人民党の衰退 その中で迎えた1896年の大統領選挙では、人民党は農民の要求する銀貨の自由鋳造などの主張が重なる民主党のブライアンを支持することを決定したが、それに反対する党員も多く、党内に分裂が生じた。結局、独自候補を立てなかったことから存在感が薄まり、大統領選挙は北部財閥の強い支持を受けた共和党のマッキンリーに敗れてしまった。一方、ストライキを闘った工場労働者層の支持を受けて、アメリカ社会党が登場し、弾圧を受けながら活動を開始した。また、共和党・民主党の双方に、独占資本主義の進行に対する抑制の必要を意識する革新主義の運動がはじまり、人民党の存在意義は次第に薄まり、96年の大統領選挙をきっかけに活動は次第に停滞し、20世紀には勢いを失い、1908年に消滅する。
注意 人民党という党名は、マルクス主義政党の「人民民主主義」に基づくものと思われがちであるが、このアメリカの人民党はマルクス主義、あるいは社会主義とは関係がなく、アメリカの農民運動から生まれた政党である。またアジアにはタイの人民党(1932年、タイ立憲革命を実行した)などにもみられるような民族主義政党でもない。

ポピュリズムの先駆

 人民党(ポピュリスト党)はアメリカ最初の二大政党に対抗する全国政党として登場したところに意義がある。またポピュリスト党というその党名から、一般民衆が政治勢力として政治に関わることをポピュリズムということばにつながっていく。
(引用)しかし短命に終わったとはいえ、アメリカの人民党の残した歴史的意義は大きい。人民党は、その「普通の人々」に基盤を置いて既成政治を批判する姿勢に始まり、既得権益への厳しい告発、具体的かつ急進的な改革の主張、一般に広く通用するわかりやすい言葉遣いに至るまで、後の政治運動に消しがたい影響を与えたからである。
 人民党の運命は、アメリカはもとより、ラテンアメリカやヨーロッパにおいても、ポピュリズムのいわば範とすべき最初の政治経験として、以後も繰り返し参照された。そして一世紀余を経て2016年大統領選挙に臨んだ共和党候補のトランプの主張とスタイルもまた、既存の政治経済エリートに対する痛烈な批判をはじめとして、この人民党の遺産をどこかで受け継いでいるように思える。<水島治郎『ポピュリズムとは何か』2016 中公新書 p.33-34>