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アメリカ社会党

1901年に結成されたアメリカの社会主義政党。厳しい弾圧と、二大政党の存在によって党勢を伸ばすことは出来なかった。

 アメリカ社会党(SPA)はアメリカ最初の本格的な社会主義政党として、ユージン=デブスの指導により、1901年に結成された。マルクス主義を掲げ、独占資本形成期の労働者の権利、利益を守る政治活動を行った。デブスは同党候補として大統領選挙に出馬、党勢を拡大したが、第一次世界大戦で反戦を主張して弾圧された。その後に入党したトマスが26年から党首となり、その後1948年まで大統領候補として二大政党に挑戦を続けた。アメリカ社会党はマルクス主義を掲げながら、議会政治を通しての改革を主張したが、大戦前には共和党の革新主義を唱える共和党のセオドア=ローズヴェルト、大恐慌後はニューディール政策を掲げたフランクリン=ローズヴェルトが社会主義的政策を採用したため、独自性を発揮することが出来ず、戦後はリベラル派として民主党に埋没した。2016年大統領選挙では、その流れを汲むサンダースが民主党左派としてヒラリー=クリントンと大統領候補指名を争い、予想外の支持を集めた。

資本の独占の進行

 19世紀末、アメリカは第二次産業革命が進行し、独占資本の形勢が進み帝国主義の段階に達した。カーネギー、モーガンやロックフェラーなどの財閥が形成され、富が一部に集中していったのに対し、労働者は無権利の状態に置かれ、低賃金に苦しむ状態が続いた。1886年にアメリカ労働総同盟が発足したが、それは熟練工の利益を守ることを主眼としており、指導者サミュエル=ゴンパースも政治活動には否定的であったので、労働者を代表する政治組織の形成は遅れていた。
 1892年には人民党が結成されたが、これはポピュリスト党とも言われ、主として西部・南部の白人農民が中心となって二大政党に不満を持つ層を狙って政治に参画しようとする政党であって、社会主義の立場から労働者の解放を目指そうという政党ではなかった。

労働組合のストライキ

 1893年、世界最初の同時不況である恐慌が発生し、アメリカにも及んだころ、資本家と労働者の対立は激しさを増していた。その前年にピッツバーグのカーネギー製鋼工場で大規模なストライキが起こり、ガードマンを雇ってスト破りをしようとした会社側に対して労働者が激昂、7月6日には双方が小銃、ダイナマイトを使用する流血の惨事となった。会社は州知事に州兵の派遣を要請、8千名の州兵が出動して工場を管理下に置き、ストライキは鎮圧された。
 不況が長びき賃金カットや解雇が続く中で、1894年7月、シカゴのプルマン寝台車両会社でストライキ(プルマン・ストライキ)が始まった。発の産業別組合である産業別組合であるアメリカ鉄道組合を組織したユージン=デブスはプルマン・ストに同調して鉄道ストを決行、中西部一帯で鉄道が止まるという大きな運動となった。それに対してクリーヴランド大統領(民主党)は郵便物の保護という口実で2千名の連邦軍を派遣、さらに裁判所がストライキを違法と認定してデブスらが逮捕されたため、ストライキは弾圧された。<齊藤眞『アメリカ現代史』1976 山川出版社 p.52-54>

ユージン=デブス

 ユージン=デブスは鉄道労働者として組合活動を始め、1894年にシカゴのプルマン・ストライキを不法に指導した罪で服役。刑務所で社会主義関係の書物を読み、出所するときには社会主義者となっていた。すでにヨーロッパにおける1848年革命が挫折した後にアメリカに亡命した社会主義者によって社会主義運動は伝えられ、マルクス主義も知られていた。1876年にはアメリカでも社会主義労働党が組織されたが、活動を支えたのはドイツ系移民であって、情宣活動もドイツ語で行われていたために、アメリカの大衆に受け入れられることはなかった。それに対してデブスはインディアナ州に生まれたアメリカ人であり、労働組合運動で弾圧されて獄中の人となり、自ら学んで社会主義者となったので、その訴えはアメリカの一般大衆に訴える力をもっていた。デブスは1898年に社会民主党を結成、1900年の大統領選挙に立候補した。1901年には本格的な全国政党としてアメリカ社会党(SPA)を結成したデブスはアメリカ社会主義の主要なリーダーとなった。その後、4度にわたる社会党の大統領候補として選挙に臨んだ。
 デブスは1900年の大統領選挙では一般投票で全体のわずか0.6%しか獲得できなかったが1912年の大統領選挙では6%にあたる90万票を獲得した。このときSPAの党員数は結党当時の10倍以上に当たる約12万にまで増加し、2人の連邦議会議員、ミルウォーキーなど50以上の都市の市長、300人以上の地方議員をはじめ、全米で1200人の公職者を選出するまでになった。<杉田米行『知っておきたいアメリカ意外史』2010 集英社新書 p.106>

第一次世界大戦で反戦を貫く

 1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、第2インターナショナルに加盟していた世界の社会主義政党は次々と自国の戦争の支持に転じていった。アメリカ社会党は当初から戦争反対を主張していたが、1917年4月、アメリカが参戦すると、党内でも激しい議論が起こり、セントルイスの党大会で激論の末、党として反戦の立場を貫くことを決定した。しかし、アメリカ政府は同年6月、スパイ防止法を成立させ、社会主義者など反戦活動を取り締まる刑罰を定め、1918年5月、デブスがオハイオ州で反戦演説を行うと、スパイ防止法違反で逮捕、投獄した。これによって、アメリカ社会党の活動は困難になっていった。

共産党の分裂

 さらにSPAに大きな衝撃を与えたのが、1917年のロシア革命(第2次)ボリシェヴィキ政権の成立だった。1919年、レーニンコミンテルン(第3インターナショナル)を結成し世界の社会主義・共産主義勢力に参加を呼びかけると、SPAに動揺が生じた。主流派はロシア革命を支持したもののボリシェヴィキの統制下に入ることには反対したが、反主流派はコミンテルンへの即時加盟を主張した。そのため1919年に開催された臨時大会でSPAは分裂、親ボリシェヴィキ派は「アメリカ共産党」を結成した。アメリカにも共産党が生まれ、活動を開始しすると、SPAに残ったのは4万人ほどで、残りの6万人ほどが参加した。 → アメリカの政党政治

移民制限の影響

 政府による弾圧、共産党の分離などとともに、アメリカ社会党の運動を困難にしたのが、1920年代に強まった移民制限の動きだった。移民労働者から多くの支持を得ていた社会党にとって、特に1924年に移民法が制定され、東欧・アジアからの移民が制限されたことで大きな打撃を受け、勢力は少しずつ衰退した。

ニューディールによる衰退

 1929年に世界恐慌が起こり、資本主義の矛盾が一気に表面化したことは、社会党に再起の機会を与えた。新たに党指導者となったノーマン=トーマスは1932年の大統領選挙で88万票を獲得、労働者の支持を回復したかに見えた。しかし、その選挙で当選した民主党F=ローズヴェルト大統領が1933年に打ち出したニューディール政策は、農業の立て直し、組織労働者の保護、社会保障の創始と言った斬新な社会主義的政策を次々と打ち出し、社会党の主張は横取りされた形となった。
(引用)ルーズヴェルトは、資本主義体制内で思い切った改革を断行した。これは、SPA党員の心情に訴えるものを持ち、多くの労働組合指導者たちは、ルーズヴェルトを支持するようになっていった。理想を提唱するだけで、政策を実現できないSPAよりも、政権の座にあり、現実に改革を実行できるルーズヴェルト政権の方が、SPA党員にとって魅力的に映ったのである。<杉田米行『同上書』 p.111>

アメリカ社会党の消滅

 SPA党首ノーマン=トーマスはその後も大統領選挙に立候補したが、1936年=約18万、40年=11万、44年=8万と徐々に得票数を減らし、戦後の1948年には14万票に回復したが、その後は立候補することはなかった。SPAはそのまま状況を変えることはできず、1973年に分裂し、消滅した。後継政党はいくつか存在するがいずれも数千票台の得票に止まっている。<杉田米行『同上書』 p.111-112>