グアム
太平洋のマリアナ諸島の島。1521年、マゼランが到達。1898年の米西戦争でアメリカ領となる。太平洋戦争では激戦地となった。
太平洋のマリアナ諸島の中心となる島。世界周航中のマゼラン船団が、1521年に来航した。マゼランと乗組員はグアム島に上陸したが、ボートを一隻盗まれたことへの報復として50軒の家を焼き払い、7人の島民を殺している。
フィリピンに遠征したスペインのレガスピ艦隊が1565年に来航して、スペイン領であることを宣言した。1668年から本格的なスペインの植民地経営が始まり、宣教師による強制的なカトリックへの改宗が進められた。島の伝統的な習慣を無視した布教は島民チャモロ人の反発を受け、1670年から95年にかけて「スペイン=チャモロ戦争」という反乱が起き、スペインはそれを武力で弾圧した。
横井庄一さんの帰国は当時、大ニュースとなり、日本中が沸き返った。28年間という時間を経て、戦争があったことをまざまざと思い出させることとなり、「恥ずかしながら帰ってまいりました」というその言葉は流行語にもなった。横井さんが隠れていた穴はグアムで現在も再現されているという。
フィリピンに遠征したスペインのレガスピ艦隊が1565年に来航して、スペイン領であることを宣言した。1668年から本格的なスペインの植民地経営が始まり、宣教師による強制的なカトリックへの改宗が進められた。島の伝統的な習慣を無視した布教は島民チャモロ人の反発を受け、1670年から95年にかけて「スペイン=チャモロ戦争」という反乱が起き、スペインはそれを武力で弾圧した。
スペイン=チャモロ戦争
(引用)先住民のチャモロ人たちは、宣教師らの熱狂的だが一方的価値観にかたまった野望にもかかわらず、はじめは無邪気に歓迎し、華やかで珍しい洗礼の儀式もおもしろくて、最初の一年間だけでも1万3千人が入信した。……しかし先住民を基本的に野蛮人としか見ていない宣教師たちは、伝統的チャモロ社会の風俗習慣を急激にキリスト教式に変えていった。……サイパン島やテニアン島などにも武力をともなう布教をひろげてゆき、もはや反乱は何かのきっかけさえあれば起きる状況となった。(その後、1672年に「親の反対を無視して赤ん坊に強引な洗礼をやった」宣教師が殺され、スペインは報復を始める。)報復は報復を呼び、戦乱はマリアナ全島に拡大して「スペイン=チャモロ戦争」となった。だが、マゼランのころより長足の進歩を遂げている火器の前に、グアム島の村は全家屋を焼きつくし、ほとんどの住民を殺しつくすという「三光」作戦的残酷戦術によってほろぼされてゆく。……1680年に赴任してきたキロガ総督は、ヨーロッパの戦場できたえいた兵術と最新兵器でグアムを地獄の島と化し、さらに逃亡者を追ってロタ島など北方の島々にも虐殺遠征隊軍をくりだした。彼の統治下の2年間だけで、チャモロ人口は4万人から5千人に激減する。<本多勝一『マゼランが来た』1989 朝日新聞社 p.176-180>
Episode 砲撃を礼砲と勘違い
グアム島は太平洋におけるスペイン植民地としてマニラ―アカプルコ間のガレオン貿易の中継地となった。19世紀にスペインの植民地ラテンアメリカでは次々と独立国が生まれていったが、グアムにはその動きは伝わらなかった。しかし、19世紀の終わり、突然、アメリカ合衆国の戦艦がグアムに来襲した。キューバをめぐるアメリカとスペインの対立から米西戦争が勃発、その余波がグアムにも及んだのだった。(引用)アメリカ合衆国との戦争が起こったとき、アメリカの軍艦がグアム島を砲撃した。この島のスペイン人の長官は、入港してきた船が礼砲を撃ったと勘違いし、それに返礼しようとしたが、砦の守備隊も火薬を持っていなかったので、相手の船に行って貰ってこい、と部下に命令したそうである。スペイン人の太平洋における時代錯誤ぶりを象徴するエピソードである。グアム島は、メキシコがスペイン植民地であったころ、マニラ―アカプルコ間のガレオン貿易の中継地として重要性を保っていたが、メキシコ独立(1821年)後は、意味がなくなっていたのである。<増田義郎『太平洋―開かれた海の歴史』2004 集英社新書 p.161>
アメリカによる併合
その後スペイン支配が続いたが、19世紀後半になってアメリカ帝国主義が太平洋の分割に乗り出し、1898年の米西戦争の結果として締結されたパリ条約によってアメリカ合衆国領となった。太平洋戦争中は日本が占領し、激戦地となった。現在もサイパン島とともにアメリカ領で、海軍基地が置かれており、またリゾート地として観光客を集めている。Episode グアム島の日本兵
1972年、グアム島のジャングルで、一人の日本兵が発見された。戦後の28年間、日本の敗戦を知らず隠れてていた横井庄一陸軍伍長だった。この突然の帰還は戦争を忘れかけていた日本人を驚かした。横井庄一さんは二度目の召集で満州から1944年にグアムに配属され、7月に上陸したアメリカ軍との戦闘となった。グアムの日本軍は敗れたがそのままジャングルにひそんで抵抗する兵士の一人が横井伍長だった。翌年8月15日の終戦はジャングルに潜む日本兵には情報が行き渡らなかった。横井伍長も戦死したものとみなされ叙勲もされた。ところが1972年、偶然現地の漁師に発見され、帰国することとなった。横井伍長はジャングルで穴を掘り、川魚などを捕って生き長らえていたのだ。はじめ他に二人の仲間がいたがいずれも途中で亡くなったという。横井庄一さんの帰国は当時、大ニュースとなり、日本中が沸き返った。28年間という時間を経て、戦争があったことをまざまざと思い出させることとなり、「恥ずかしながら帰ってまいりました」というその言葉は流行語にもなった。横井さんが隠れていた穴はグアムで現在も再現されているという。