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パリ条約(1898)

1898年、米西戦争でのアメリカとスペインの講和条約。スペインはキューバの独立を認め、プエルトリコ・グアムの割譲、フィリピンの売却に応じた。アメリカ帝国主義は初めて海外に領土を獲得し、スペインの海外植民地は消滅した。

 1898年12月、米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)の講和条約としてパリで締結された条約。アメリカの一方的な勝利をうけて、スペインはアメリカに対し、キューバの独立プエルトリコグアムの割譲、フィリピンの2000万ドルでの譲渡を認めた。

アメリカ帝国主義、海外領土を獲得

 これはアメリカ合衆国とスペインの間で締結されたものであり、キューバ・プエルトリコ・グアム・フィリピンの人々は関与することなく、その帰属が決定するという、まさに帝国主義列強による領土分割であった。キューバはその後、事実上のアメリカ合衆国の保護国となる。フィリピンでは、スペインからの独立をアメリカの支援で実現するという希望を打ち砕かれた形となり、翌1899年から激しいフィリピン=アメリカ戦争となり、結局フィリピン独立は踏みにじられてアメリカの植民地とされることとなる。 → アメリカ帝国主義

アメリカ国論の分裂

 1898年12月に締結されたパリ条約が、アメリカ合衆国での批准を受けるために上院に送られと、その賛否をめぐり、国論は二分され、激しい議論が展開された。その争点は、フィリピンを領有するか否かを巡る問題であった。建国以来百年をやや越えたばかりのアメリカ合衆国にとって、初めての海外領土を、しかも遠く離れた太平洋の彼方にあるアジアの地を領有することが正しいことか、誤っているかという、建国の理念にもかかわる大論争となった。
 フィリピン領有はアメリカの共和国理念に反するとして強く反対した「反帝国主義」陣営には、実業家のカーネギー、作家のマーク=トウェイン、労働組合の指導者サミュエル=ゴンパース、ユージン=デブズ、民主党の政治家ウィリアム=ジェニングズ=ブライアンなどがいた。その主張には植民地をもつことはアメリカの理念である民主主義に反するというものもあったが、植民地から安価な労働力が流入して賃金が低下する恐れがあるという労働者の立場からの反対もあり、さらに劣等な民族であるアジア人種を国民として迎えるのはアメリカ的なものが損なわれるという人種差別意識も含まれていた。
 一方、フィリピンを領有すべしという「帝国主義」陣営には軍人で米西戦争で名声を高めたセオドア=ローズヴェルトがいて、最も強硬に論じた。それを支えたのは、西部開拓時代の「明白な天命」論の延長であり、一部で知識人を捉えていたソーシャル・ダーウィニズム(社会的ダーヴィン主義)があった。ソーシャル・ダーヴィニズムは、ダーウィンの進化論のなかの適者生存の原則は人間社会・国家にも当てはまると言う考えであり、強国=文明国が弱小国=非文明国を支配下に入れるのは自然の原理と同じであり、遅れた地域を文明化するのはむしろ文明国の義務である、という思想であった。また、アメリカ海軍提督のアルフレッド・T・マハンが説いた、アメリカは海洋国家として発展すべきであり、海洋国家は原料供給・市場としての植民地を持たなければならず、そのためには強力な海軍が必要であるという「海上戦力論」が影響力を持っていた。マハンの構想では、アメリカがパナマ運河を確保して大西洋と太平洋を結び、太平洋の真ん中のハワイと西端のフィリピンを領有することは海洋戦略として不可欠であり、まさにそれがアメリカ帝国主義の要になるのだった。<有賀夏紀『アメリカの20世紀(上)』2002 中公新書 p.57-58>

アメリカ、フィリピンを2000万ドルで買う

 パリ条約はアメリカとスペインの条約であり、当のフィリピンの意志には関係なく、2000万ドルでスペインからアメリカに売られることとなった。フィリピンは、1898年4月に米西戦争が始まったときには、アメリカ軍がスペイン支配から解放してくれるものとして協力し、アメリカ軍を解放軍として迎え入れた。6月にはフィリピン共和国の独立を宣言、アギナルドを初代大統領に選出した。ところが、12月、パリ条約が締結され、アメリカが自らが新しいフィリピンの支配者になろうとしていることを知って、裏切られた思いで各地で反乱を起こした。翌1899年2月にはついにフィリピン=アメリカ戦争となった。アメリカは国内のフィリピン領有反対派を抑え込み、全面的な軍事行動を展開し、1902年までにフィリピン軍を屈服させ、フィリピンはアメリカ植民地となった。

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