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レフォルマ戦争

1858~61年、メキシコの自由主義改革派と保守派の内戦。フアレスの率いる自由主義派が勝利したがナポレオン3世のメキシコ出兵の口実とされた。

 独立を達成した後のラテンアメリカでは独立戦争で活躍した軍事力を持つクリオーリョ出身の地域ボス(カウディーリョという)が台頭した。メキシコ共和国で大統領として独裁政治を行ったサンタ=アナがそれにあたる。サンタ=アナ独裁政権の下でメキシコは混乱し、アメリカ=メキシコ戦争によってテキサスその他の領土を失うなどの危機に陥った。その独裁に対してメキシコの近代化と自由化を掲げた運動が始まり、激しい独裁反対によって1855年にサンタ=アナ大統領は辞任した。

レフォルマ改革

 1855年に始まる改革を主導したのがインディオ(先住民)サポテカ人の血をひくメスティーソであるフアレスであった。フアレスによる自由主義改革は多方面にわたっていたが、教会財産の国有化し、婚姻と住民登録を教会の管理から民事管理に移し、信教の自由を認めるなど、主として政教分離と後悔権力の削減を主眼としていた。それを集約したものが1857年に制定されたメキシコ共和国憲法であった。その他、一連のフアレスらによる自由主義的変革をレフォルマ革命とも言う。レフォルマも「改革」を意味する言葉であり、改革派は宗教の自由にとどまらず、議会政治の確立、言論の自由、通商の自由などを主張した。その運動の中心はメスティーソと言われる人びとだった。

レフォルマ戦争

 それに対して教会勢力を背景とする保守派は「伝統と秩序」を掲げるクリオーリョの地主層、カトリック教会などが基盤であった。メキシコ内部のこの対立は、アメリカ合衆国が改革派を、スペインが保守派を支援することで、国際的な問題ともなっていった。改革派に押されていた保守派も巻き返し、両派はついに1858年、内戦にに突入、この1861年まで続いた内戦をレフォルマ戦争(改革戦争)という。
 この内戦は一進一退を続けながら、最終的にはフアレスの指導する改革派が勝利し、1861年に実施された大統領選挙でフアレスが当選し、改革は政権が確立したかに見えた。

ナポレオン3世の介入

 メキシコがレフォルマ戦争の内戦を続けていた頃、アメリカ合衆国は南北戦争のためにメキシコに介入できない状態となった。この機に乗じてフランスのナポレオン3世が介入してきた。ナポレオン3世はメキシコの負債未払いを口実に1861年にメキシコ出兵を実行し、1864年には傀儡政権としてハプスブルク家のマクシミリアンを皇帝に据えた。保守派も勢いを盛り返し、皇帝を支えた。フアレス大統領はいったん、首都のメキシコシティを占領されて北部に逃れたが、メキシコ共和国軍を立て直して激しく抵抗を開始した。この共和国軍と皇帝軍の内戦がメキシコ内乱である。

メキシコの勝利

 フアレス大統領の率いる共和国軍は1867年までに皇帝軍を圧倒し、ナポレオン3世はフランス軍を撤退させざるを得なくなり、捕らえられたマクシミリアンは処刑された。レフォルマ戦争とフランスの介入と戦ってメキシコを勝利に導いたフアレスは大統領として不動の権威を築き、1872年の死去までその地位にとどまった。
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