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メキシコ出兵

フランスのナポレオン3世が、1861年にメキシコの混乱と南北戦争に乗じて出兵して干渉した。さらに傀儡政権としてマクシミリアンを皇帝として統治させたが、強い反発を受け失敗、ナポレオン3世の権威失墜の一因となった。

 ナポレオン3世1861年メキシコ共和国のフアレス政権が内戦のために外国債の利息支払い停止を声明したのに対し、イギリス・スペインを誘って出兵した。フアレスの率いるメキシコ軍の抵抗と風土病に苦しんだイギリス・スペインの2国軍はすぐに撤退したが、フランス軍は進撃を続け、63年6月に首都メキシコ=シティを陥落させた。さらにメキシコに君主国家を建設することを画策し、ハプスブルク家のマクシミリアン(オーストリア皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟)を担ぎ出し、翌64年に彼はメキシコ皇帝となった。しかし、メキシコ軍のゲリラ的抵抗は続き、メキシコ遠征はフランスの財政を圧迫するようになったため、ナポレオン3世は撤退を決意、67年に撤兵を完了した。しかしマクシミリアンは撤退を拒否し、メキシコ軍にとらえられて処刑された。

出兵の理由

 口実はメキシコの外国債利息支払い停止であったが、ナポレオン3世のクリミア戦争アロー戦争インドシナ出兵と同じく「人気取り外交」の一例である。現実的には当時レセップスによるスエズ運河の建設が進んでおり、同じような運河を構想し、ラテンアメリカへの領土的侵出を狙っていた。それはアメリカ合衆国の反発を受けることが必至であったが、ちょうど61年に南北戦争が始まりアメリカが手を出せないことが判っていたので、その隙を狙ったのである。しかし65年に戦争が終わるとアメリカはフランスのメキシコ遠征を厳しく非難しはじめ、ナポレオンの撤退決定をうながした。また副次的な要因としては、皇后のウージェーヌが熱心なカトリック信者のスペイン生まれで、旧スペイン領のラテンアメリカにカトリックの君主国を再建したいと願っていたこともあった。ナポレオン3世はメキシコのフアレス政権が反教会の改革を進めていることも非難していた。

メキシコの状況

 メキシコは1821年、スペインから独立。24年に共和国となった。しかし政情は安定せず、30~50年代にカウディーリョと言われる軍事的地域ボス出身のサンタ=アナが大統領として独裁的権力をふるった。その間、アメリカ合衆国が当時メキシコ領であったテキサス侵出を開始、さらに46~48年のアメリカ=メキシコ戦争に敗れたメキシコはテキサス・カリフォルニアなどの領土を失った。独裁政治に反対して自由主義運動が50年代からフアレスらによって活発になり、保守派との間で1858~61年の内戦(レフォルマ戦争)となった。自由主義改革派としてその戦いを指導したフアレスは、57年に共和国憲法を制定し、議会政治と信仰の自由、教会の特権停止などを打ち出し、メスティーソの幅広い支持を受けて内乱に勝利した。それに対して介入したのがナポレオン3世であった。

フランスの干渉失敗

 フランス軍の遠征によって、メキシコは共和国軍と皇帝軍の激しいメキシコ内乱となった。内戦とは言え、メキシコ軍によるフランスの侵略軍に対する抵抗が本質であったこの戦争は、多大な犠牲と出費を出した上で失敗し、皇帝マクシミリアン1867年6月19日、処刑されて終わった。その様子はフランスの画家マネの描く「マクシミリアンの処刑」で伝えられている。このことはナポレオン3世の名声を大きく揺るがすこととなった。
 その後、ナポレオン3世は1870年にプロイセンの挑発を受けて普仏戦争に踏み切ったが、敗れて退位し、第二帝政は崩壊する。一方のメキシコではフランスの侵入軍を破ったフアレスの名声と権威が高まり、大統領に正式に選出されでメキシコの独立と近代化の基礎を築き、建国の父の一人として今も尊敬されている。ただ、大統領の地位には固執し、再選を可能にする憲法改正などで権力を維持したため、一面独裁的との批判も受けがら、72際で急死まで大統領の地位にいた。

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鹿島茂
『怪帝ナポレオン3世』
2004 講談社学術文庫