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インド国民会議

1885年イギリスがインドの民族運動を懐柔しようとして開催したが、参加したインド人指導者の下で次第に反英的に転化、イギリスに対する自治要求の掲げた国民会議派が生まれ、1947年のインド独立に至る民族運動の展開される場となった。

 1885年、第1回大会をボンベイ(現ムンバイ)で開催した会議で、はじめはイギリスがインドの名士71名を集め、インド総督の諮問に答えて意見を述べさせ、植民地統治に対する不満のはけ口とするつもりであった。それは1883年に、バネルジーらが反イギリス的な民族運動組織として全インド国民協議会を発足させたことを警戒したためであった。ところが、インド国民会議に結集した人々はイギリスの思惑に反して、インドの自治獲得を目指す国民会議派と言われるインド最初の国民的な政党を組織することとなった。
 1886年に議長となったナオロジーは、イギリス植民地支配によってインドの富が奪われているとして「富の流出」論を説き、インド人によるインド統治(自治)の実現をめざす国民会議の運動を理論づけた。また、本国のイギリス人政治家、在インドのイギリス人高等文官などにも一定の影響を与え、国民会議に参加するものもあった。

国民会議と国民会議派

 1885年に開催されたインド国民会議は英語では Indian National Congress であり、直訳すれば、「インド国会」となる。Congress はアメリカでは「議会」を意味している。しかしインド国民議会は、国会や議会の意味はなく、国民の代表が選出されたわけでもない。イギリス当局によって撰ばれたインド人が、イギリスのインド統治について諮問された件について議論する場に過ぎず、決定する場でもなかった。つまり、単なる話し合いの場に過ぎなかったわけである。いわばイギリスがインド人の不満のガス抜きをするために設けたものであったが、次第にイギリスの思惑から離れて、インドの自治を、さらには独立を要求する場に転換していく。
 それが明確になったのが、1905年にイギリスが制定したベンガル分割令に対する反対から1906年12月のカルカッタ四大綱領を決議した頃からであった。このときはイギリスのてこ入れもあって、急進派と穏健派が分裂して勢いを失ったが、第一次世界大戦後にガンディーの指導で運動が再び活発になり、1920年の大会で全国組織を改革して、明確な「政党」となり、Congress Party と称するようになった。厳密にはこのときから政党として「国民会議派」となる。 → イギリスのインド植民地支配と民族運動(19世紀後半)
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