ナオロジー
19世紀後半、インドの民族運動の指導者。初期のインド国民会議派を指導した。1892年、インド人として初めてイギリス下院議員に当選。「富の流出」論でイギリス植民地支配の不当性を理論化した。
ダーダーバーイー=ナオロジー(1825~1917、ナオロージーとも表記)はボンベイ(現在のムンバイ)のゾロアスター教徒(インドではペルシア系の意味でパールスィーといわれた)出身で、英語の高等教育を受けインド人として初めて物理と数学の教師になった。後にイギリスに渡り、イギリス人のインド理解者と共に「東インド協会」をつくり、インドの近代化に関する議論に関わる。帰国後、インド国民会議の開催に当たり、そのメンバーとなって1886年には議長を務め、インドの民族運動の指導者の一人となった。
その後再びイギリスに向かい、下院議員選挙に立候補して当選、インド人として初めてイギリス下院議員(1892~95)となった。その後もインドで国民会議派の指導者として活動し、その「富の流出」論はインドの自治要求の根拠とされた。
ナオロジーの指摘 ナオロジーが指摘したのは19世紀末のイギリス植民地支配下での、あまりにも貧しいインド人と莫大な収入を享受しているイギリス人の生活ぶりの違いだった。1850年代後半のインドは9回もの飢饉がおこり、死者は各回ごとに500万人を超え、驚くべきことに1871年~1921年のインドの人口増加率は平均すると年0.37%にすぎずなかった。データによれば、1901年のインドの総人口は2億8千万(1971年の5億6千万の半分)、人口成長率は0.11%(1971年は2.3%)、平均寿命は男20.1歳(同46.4歳)、女21.8歳(同44.7歳)、識字率は6.2 %(同29.4%)だった。
他方で「本国費」と称されるインドの統治のためにイギリス本国で使われる費用は膨大で、鉄道利子や反乱鎮圧費、イギリス人退役官僚の年金などの名目でインド側の負債が膨大にふくらみ、1892年までにインド政庁の歳出の約25%が毎年イギリス本国のインド省に支払われていた。インドの通貨ルピー価格の下落は、本国への支払負担をいっそう重くした。ナオロジーは、これをインドからの富の流出と呼び、このためにインドが資本を蓄積することができないのだ、と指摘した。
イギリスには「富の流出」論に対して、インドがイギリスに支払ったのは、統治費用・資本利子など、インドを豊かにするために当然の支払であるといった反論もあった。結局、インドはイギリス支配によって得をしたのか、損をしたのか、現在もなお、インド側とイギリス側の歴史家の意見は厳しく対立したままである。イギリスでは「富の流出」論を認め早くからインド国民会議を支持する政治家もいた。この点は、日本の朝鮮・台湾などの植民地支配との大きな違いである。<長崎暢子『自立へ向かうアジア』世界の歴史27 中央公論社 1999 p.240-242>
それに対してイギリス当局は、急進的な運動を進めようとしたティラクらを逮捕し弾圧にあたった。バネルジーやナオロジーらは、イギリス支配のもとでのインド人官僚枠の拡大や選挙権の拡大などの自治拡大の要求に留まる穏健派であったので、次第にティラクら急進派とは方向性の違いが明確になり、1909年には国民会議派は分裂、運動はイギリスと戦いながら独立を明確に求める急進派が力を持つようになり、ナオロジーの影響力が弱まっていった。
その後再びイギリスに向かい、下院議員選挙に立候補して当選、インド人として初めてイギリス下院議員(1892~95)となった。その後もインドで国民会議派の指導者として活動し、その「富の流出」論はインドの自治要求の根拠とされた。
「富の流出」論
初期のインド国民会議で議論された問題に「富の流出」問題がある。それを最初に提起したのが、ナオロジーであった。彼は、1867年ロンドンの東インド協会の会合で「インドに対するイギリスの負債」と称する論文を読み上げ、初めて「富の流出」論を発表した。「インドの歳入の内、ほとんど4分の1は、インドの国外でイギリスの資産に加えられ、その結果インドは常に出血させられる」というものであった。すでに1830年代にラーム=モーハン=ローイやロメーシュ=ダットらもインドで地租として治められた富がイギリスに流出していると批判していた。これらの「富の流出」論は、インドの貧困と頻発する飢饉の最大の原因であると認識され、1896年のインド国民会議派のカルカッタ大会では「インドの貧困と飢饉は富の流出による」と正式に表明がなされた。これらの議論を経て、インド国民会議派の運動は急進化していった。<長崎暢子『ガンディー』1996 岩波書店 p.87>ナオロジーの指摘 ナオロジーが指摘したのは19世紀末のイギリス植民地支配下での、あまりにも貧しいインド人と莫大な収入を享受しているイギリス人の生活ぶりの違いだった。1850年代後半のインドは9回もの飢饉がおこり、死者は各回ごとに500万人を超え、驚くべきことに1871年~1921年のインドの人口増加率は平均すると年0.37%にすぎずなかった。データによれば、1901年のインドの総人口は2億8千万(1971年の5億6千万の半分)、人口成長率は0.11%(1971年は2.3%)、平均寿命は男20.1歳(同46.4歳)、女21.8歳(同44.7歳)、識字率は6.2 %(同29.4%)だった。
他方で「本国費」と称されるインドの統治のためにイギリス本国で使われる費用は膨大で、鉄道利子や反乱鎮圧費、イギリス人退役官僚の年金などの名目でインド側の負債が膨大にふくらみ、1892年までにインド政庁の歳出の約25%が毎年イギリス本国のインド省に支払われていた。インドの通貨ルピー価格の下落は、本国への支払負担をいっそう重くした。ナオロジーは、これをインドからの富の流出と呼び、このためにインドが資本を蓄積することができないのだ、と指摘した。
イギリス国内の支持者
この「富の流出」論は、イギリスの統治よりもインド人による統治の方がよい、という主張の根拠となり、インド国民会議が民族運動を展開していく際に、有力な理論的基礎となった。また、イギリス国内でも反響があり、政治家の中にもインドの独立を認めるべきであると主張する、「協力者」も現れた。インド在住のイギリス人で、国民会議に参加した急進派と言われる人々も存在した。初代書記長であったA.ヒュームもそのような急進派高等文官であった。1906年に初代の労働党党首となったケア=ハーディも国民会議の支持者として知られていた。イギリスには「富の流出」論に対して、インドがイギリスに支払ったのは、統治費用・資本利子など、インドを豊かにするために当然の支払であるといった反論もあった。結局、インドはイギリス支配によって得をしたのか、損をしたのか、現在もなお、インド側とイギリス側の歴史家の意見は厳しく対立したままである。イギリスでは「富の流出」論を認め早くからインド国民会議を支持する政治家もいた。この点は、日本の朝鮮・台湾などの植民地支配との大きな違いである。<長崎暢子『自立へ向かうアジア』世界の歴史27 中央公論社 1999 p.240-242>
ベンガル分割反対運動
イギリス帝国主義は20世紀に入るとインド統治の強化を図り、1905年、インド総督カーゾンはベンガル分割令を制定し、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の分断を策した。それに対して国民会議派はただちにカルカッタで抗議集会を開き、ティラクら急進派(過激派)が台頭し、翌1906年12月にカルカッタで開催された大会で、ナオロジーが議長を務め、英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育の4項目からなる四綱領を決議した。それに対してイギリス当局は、急進的な運動を進めようとしたティラクらを逮捕し弾圧にあたった。バネルジーやナオロジーらは、イギリス支配のもとでのインド人官僚枠の拡大や選挙権の拡大などの自治拡大の要求に留まる穏健派であったので、次第にティラクら急進派とは方向性の違いが明確になり、1909年には国民会議派は分裂、運動はイギリスと戦いながら独立を明確に求める急進派が力を持つようになり、ナオロジーの影響力が弱まっていった。