フセイン(フサイン)・マクマホン協定(書簡)
第一次世界大戦中の1915年にイギリスがアラブ側と結んだ秘密協定。大戦後のアラブの独立を約束する代わりにオスマン帝国への反乱をうながした。イギリスがユダヤ人に示したバルフォア宣言、フランスなどと密約した内容と矛盾する内容だった。
第一次世界大戦が戦われている最中の1915年7月14日、メッカの太守であるハーシム家のフセイン(フサイン)と、イギリスの中東担当の高等弁務官マクマホンとの間で取り決められた協定。書簡の形で交わされたのでフセイン・マクマホン書簡とも言われる。
フセイン(フサイン)は預言者ムハンマドの血統を継ぐハーシム家の首長であり、オスマン帝国から聖地メッカ及びメディナの管理権を持つシャリーフ=総督(太守)に任命されていた。マクマホンはエジプトおよびスーダンのイギリス高等弁務官。この協定はマクマホンからフセインに宛てた書簡という形式で、両者の間の秘密協定として結ばれた。
第一次世界大戦後、シリアを委任統治することになったフランスはファイサルを追い出したので、イギリスは自己の委任統治領であったイラクの実質的支配権をファイサルに与え、兄のアブドゥッラーにはトランスヨルダンの支配権を与えた。イギリスがつじつまを合わせたわけである。
イギリスがアラブ人国家の建設を認める
イギリスは、第一次世界大戦でドイツ側に参戦したオスマン帝国の後方を攪乱するためアラブ勢力が反乱を起こすことを、大戦後の独立を約束することで認めた文書。かねてオスマン帝国からの独立を実現しようとしていたアラブ人は、イギリスに協力し、対オスマン帝国の反乱を起こす代わりに戦後の独立を承認してもらうため、イギリスと結んだ。フセイン(フサイン)は預言者ムハンマドの血統を継ぐハーシム家の首長であり、オスマン帝国から聖地メッカ及びメディナの管理権を持つシャリーフ=総督(太守)に任命されていた。マクマホンはエジプトおよびスーダンのイギリス高等弁務官。この協定はマクマホンからフセインに宛てた書簡という形式で、両者の間の秘密協定として結ばれた。
アラブの反乱
この協定にもとづいて、1916年にフセインはいわゆる「アラブの反乱」を開始し、ヒジャーズ王国の設立を宣言、1918年にフセインの子ファイサルがダマスクスを占領し、シリアの独立をも宣言した。このアラブの反乱を指導したイギリス人が「アラビアのロレンス」として有名なトーマス=E=ロレンスであった。イギリスの二枚舌外交
しかし同じ1916年5月16日、イギリスは一方でフランスおよびロシアとのサイクス・ピコ協定でアラブ地域の英仏露での分割を密約しており、翌年には一方のユダヤ人にも国家建設を認めるバルフォア宣言を出しており、矛盾する約束を同時にしていたことになる。第一次世界大戦後、シリアを委任統治することになったフランスはファイサルを追い出したので、イギリスは自己の委任統治領であったイラクの実質的支配権をファイサルに与え、兄のアブドゥッラーにはトランスヨルダンの支配権を与えた。イギリスがつじつまを合わせたわけである。
資料 フセイン・マクマホン協定
(引用)マクマホンからフサイン宛書簡(1915年10月24日) イギリスが同盟国であるフランスの利益を損なうことなしに自由に活動できる境界線内にある地域においては、私は英国政府の名の下で次のとおりの保証および貴書簡への返答を与える権限を有しております。すなわち、(注1)メルシナとアレキサンドレッタの両地域、おおびダマスクス、ホムス、ハマ、アレッポよりも西に位置する地域はアラブ独立国家からは除外されるという修正。
- イギリスは一定の修正(注1)を加えて、メッカのシャリーフによって要求されている範囲内すべての地域におけるアラブ人の独立を認め、それを支援する用意がある。
- イギリスは外国からのすべての侵略に対して聖地を保全し、その不可侵性を承認する。
- 状況が許せば、イギリスはアラブに助言を与え、これらのさまざまな地域におけるもっとも適切と思われる統治形態を設立する援助を行う。
- 他方、アラブ側はイギリスだけの助言と指導を仰ぐことを決定し、健全なる統治形態の確立に必要なヨーロッパ人の顧問および官吏はイギリス人であることを承認する。
- バグダードおよびバスラの両州(ウイラーヤ)に関しては、現地住民の福利の促進と相互の経済的利益を保護するために当該地域を外国の侵略から守るべく、イギリスの地位と利益の観点から特別の行政措置を必要としていることをアラブ側は承認する。(後略)
<歴史学研究会『世界史史料』10 岩波書店 p.38-39>