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フセイン(ヒジャーズ王国)

第一次世界大戦の時期のアラブの指導者、ハーシム家の当主でメッカの太守。イギリスとのフセイン=マクマホン協定により、アラブの独立を約束され、オスマン帝国に対する反乱を起こす。ヒジャーズ王国を建国したが、イブン=サウードに敗れる。

 フセイン(フサインとも表記)は、預言者ムハンマドの曾祖父ハーシムの血統を引く、アラブ世界で最も崇敬を受けるハーシム家の当主で、オスマン帝国から聖地メッカ及びメディナを管理する権限をもつ太守(アミール。総督、知事とも訳す)に任じられ、シェリーフ=フセインと言われた(シェリフまたはシャリーフとは預言者ムハンマドの直系子孫の称号)。
注意 フセインという人名 フセインの父はアリーなので、アラビアでは「アリーの子」としてフセイン=イブン=アリーと呼ばれた。フセイン(Husayn フサインとも )は「小さな善」(善はハサン Hasan)を意味する伝統的な人名でイスラーム圏ではよく見られる。有名な歴史上の人物に第4代カリフのアリーとムハンマドの娘ファーティマの間に生まれたフセインがいる。兄のハサンが死んだのでシーア派の盟主となり、ムアーウィアと戦い、680年に戦死した。ただしハーシム家のフセインはスンナ派。なお、現代史でフセインと言えば湾岸戦争・イラク戦争を引き起こしたイラクの大統領フセインを思い出すが、こちらは一般にサダム=フセインと言われて区別される。

フセイン=マクマホン協定の締結

 第一次世界大戦が始まり、でオスマン帝国(及びその背後のドイツ)と戦っていたイギリスはこのフセインにオスマン帝国に対する反乱を持ちかけ、その後方を攪乱することを画策した。イギリスの高等弁務官マクマホンはフセインに働きかけ、1915年7月14日にフセイン=マクマホン協定(書簡)を締結して大戦後のアラブの独立を約束し、その反乱を支援することを約束した。
POINT  フセインは、高校世界史学習の基礎ではフセイン=マクマホン協定を締結したアラブ側の代表、というだけで事足りる感があるが、彼がムハンマドの血統につながるメッカの名門ハーシム家の出身で、イギリスと密約を結んでアラブの反乱を起こし(ロレンスの働きかけに応じた)、ヒジャーズ王国を興したこと、しかし、サウード家のイブン=サウードとの抗争に敗れ、その子たちがイギリス委任統治下のイラク王国、トランスヨルダン王国の国王とされたが、アラブ人による統一国家の建設という野望は達成できなかった、ということは正確に押さえておこう。
 ただし、世界史上の人物としては20世紀の中東情勢では無視することない、興味深い関わりがあるので、幾つかの書物を参考に、彼の足跡を述べてみよう。

メッカの太守(知事)

 フセイン(フセイン=イブン=アリー) 1852~1931 は、預言者ムハンマドの後裔とされるハーシム家の38代目当主。オスマン帝国のアブデュルハミト2世の命令でメッカで拘束されていたが、1908年、青年トルコ革命が起こったため許されてメッカの太守(知事)となった。そのころアラブ民族主義運動が興るとその盟主的な立場に置かれる。第一次世界大戦が勃発すると、1914年末にカイロに密使を送りイギリス側と接触、フサイン=マクマホン協定の締結に成功した。

アラブの反乱(砂漠の反乱)

 こうしてフセインは、イギリスの支援によって「大アラブ王国」の建設を夢見て、1916年6月5日、「アラブの反乱(または砂漠の反乱とも言う)」を起こし、メッカ、メディナ周辺を抑えて、ヒジャーズ王国の樹立を宣言した。さらに1918年には息子のファイサルにダマスクスを陥落させた。このアラブの反乱を指導したのがイギリス人「アラビアのロレンス」ことトマス=E=ロレンスであった。またこの時フセインはすでに64歳、実際の軍事行動の指揮は息子たちがとった。
サイクス=ピコ協定・バルフォア宣言 しかし、大戦中の1916年5月16日(つまりフセインの決起よりも前)にイギリスはフランス・ロシアとの間でオスマン帝国領土を三国で分割するサイクス=ピコ協定という秘密協定を結んでいた。1917年、ロシア革命が起こり、レーニンが平和についての布告で秘密外交の禁止をかかげ、帝国主義諸国が結んだ密約の一つとしてサイクス=ピコ条約を暴露した。フセインはイギリスの背信に驚愕し、激怒したが、さらにアラブ人同士の主導権争いでもフセインは裏切られることとなった。ところがイギリスは一方で、大戦末期の1917年11月、パレスチナユダヤ人の国家を建設することをユダヤ人に約束するバルフォア宣言を出しており、フセインとの約束は矛盾する内容であった。

サウード家との争い

 アラビア半島は広大な砂漠に占められているが、重要な交易ルートでもあった。20世紀初めには紅海沿岸のヒジャーズ地方はオスマン帝国領となり、メッカ太守ハーシム家が治めていた。その内陸にはオスマン帝国の支配は及ばず、北方のハーイルを拠点としたラシード家と、中央部のネジュド地方リヤドを中心としたサウード家が抗争を続けていた。そのなかのサウード家のイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)が、かつてのワッハーブ王国の再興をめざしイフワーン軍※といわれる強力な武装集団を擁しアラブ世界の主導権争いに乗りだした。すでに1918年5月頃からアラビア半島中央部の砂漠で両軍の衝突が始まり、ネジュド軍が優勢に戦いを進めていた。
※イフワーン軍とは、イブン=サウードに従った厳格なイスラーム原理主義ワッハーブ派兵士集団で、世俗的なハーシム家などのスンナ派主流に敵対心を抱き、時に残虐な行為で恐れられていた。
 1918年10月末、オスマン帝国の大戦での敗北が確定し、フセインにとっては「アラブの反乱」を勝利で終わらせることとなり、ヒジャーズからオスマン軍が撤退したことでヒジャーズ王国にはアラブ世界の統一支配の機会が訪れた。しかし、その行く手にはネジュドのイブン=サウードが大きく立ちはだかった。1919年5月、フセインは長子アリーにヒジャーズ王国軍を率いさせて遠征軍を送ったが、野営中に少数のイフワーン軍に夜襲を受けるというフルマの戦いで大敗した。しかしイブン=サウードは、ヒジャーズ進撃はイギリスの介入の恐れがあると考えて一時和睦し、もう一方の勢力である半島北部のラシード家制圧に向かい、それを成功させてヒジャーズ王国との対決に備えた。

Episode イギリスに踊らされたアラブ人同士の争い

 イギリスの対アラブ政策には二つのルートがあった。エジプトのカイロを拠点とするイギリス陸軍省の軍人はハーシム家のフセインと結び、一方、インド政庁を拠点としてイラク方面からアラブ進出をねらうイギリス軍の一派はサウード家を支援した。ハーシム家とサウード家という同じアラブ人同士だが、両方ともイギリス人に踊らされ、結局サウード家の勝利に帰したこととなる。
 イギリスは、当初はハーシム家が優位とみてフセインと提携した。その理由は、フセインが聖地メッカの太守であり名門の出として知られていたからである。また世界各地からメッカへの巡礼にむかう者が上陸する港であるジェッダは商業上の重要港としてイギリスは総領事を置いていたので、総領事からフセインの名声を聞いていたことも大きい。イギリスがハーシム家のフセインに近づく上で大きな役割を担ったのがイギリス人のロレンスであり、彼の活動を雄大なスケールで描いたイギリス映画『アラビアのロレンス』で詳しく描かれている。この映画でロレンスと交渉するのは専ら三男のファイサルとなっている。

第一次世界大戦後の中東情勢

 第一次世界大戦が終結し、1919年6月ヴェルサイユ条約が成立、その第一編国際連盟規約で委任統治の概念が規定され、オスマン帝国の領土をどう扱うかが焦点となっていった。
ファイサルのシリア王国崩壊 1920年3月、フセインの三男ファイサルはアラブ人による独立国家建設の目標を達成するとしてダマスクスでシリア王国(大シリア立憲王国)の独立を宣言した。しかしそれに対してイギリス・フランスは4月サン=レモ会議を開催してパレスティナ・イラクをイギリスが、シリア・レバノンをフランスが分割して委任統治とすることで合意し、7月にはフランスは軍事行動を起こしてダマスクスを攻撃、ファイサルのシリア王国は崩壊、イギリスに保護されてイラクのバクダードに移った。
英仏の委任統治領成立 この間、オスマン帝国はイギリス、フランスなどの連合国との間での交渉が進み、1920年8月セーヴル条約を締結、帝国領でアラブ世界に属するパレスチナ・メソポタミア地方を放棄し、サン=レモ合意をもとにイギリス・フランスの委任統治とすることが確定した。
 イギリスはダマスクスでフランスに敗れたファイサルをバグダードに移し、イギリスの委任統治領のイラク国王として迎えたが、そのときバグダードにいた同じくフセインの次男アブドゥッラーはバグダードを離れ、パレスチナの一部であるヨルダン川東岸に軍を率いて入った。イギリスはその地を委任統治領トランスヨルダンとして、アブドゥッラーを首長とすることを認めた。この措置は、フセイン=マクマホン協定でアラブの独立を約束していたイギリスにとって、約束を一部でも果たすという意味があったが、いずれもイギリスの委任統治下の名目的な支配者として影響力を保持することがねらいであった(将来的には独立することが約束されていた)。
フセインのカリフ宣言 これによってヒジャーズ王フセインは、ハーシム家の勢力でネジュドのイブン=サウードを挟撃する態勢となった。その上で、軍事面での敗色を挽回しようとした。それは1924年3月にトルコ共和国政府がカリフ制廃止を決めたことで空位になっていたカリフに就任することであった。カリフ就任宣言することで全アラブの主導権を握ろうとしたが、ムスリム全般の支持を受けることはできす、ヒジャーズ王国フセインがカリフを僭称したとしてイブン=サウードがアラブの諸部族に反フセインに起ち上がることを呼びかける口実を与えることになった。
ヒジャーズ王国の崩壊 1924年9月、攻勢を開始したイブン=サウード軍はメッカを守る要衝ターイフでフサインの長子アリーの軍を大破し、メッカに迫った。メッカ市民は港町ジェッダに避難、フセインの敗北は必至とみてヒジャーズ国王位からの退位とメッカからの退去を要請、フセインは怒り狂ったがやむなく長子アリーをヒジャーズ王の後継者に指名して、メッカを逃れ、アカバに退いた。ネジュド軍が迫る中、アリーもメッカを捨ててジェッダに退き、10月16日、イブン=サウードはメッカに無血入城、アリーはなおもジェッダに逃れて抵抗した。
フセインのヒジャーズ退去 さらにイブン=サウード軍はジェッダ市を包囲、市内は間断のない砲撃と水、食糧の欠乏に苦しめられ、約1年の包囲戦が続いた。アリーはイブン=サウードの要求を入れて父フサインのヒジャーズからの退去を認め、それによって1925年6月17日、フセインは妻とともに寂しくイギリス船でアカバを発ち、東地中海のキプロスに向かった。フセインは大アラブ国家建設の夢に破れ、1931年7月4日、79歳の生涯を終えた。その遺体は後にイスラーム教の聖地の一つイェルサレムに埋葬された。
 またハーシム家の彼の息子たちもそれぞれ苛酷な運命に見舞われることとなり、アラビア半島の主役はイブン=サウード(アブドゥルアジーズ)が建国するサウジアラビア王国へと遷ることになる。

参考 フセインの息子たち

 フセインには4人の男子がいた。彼らハーシム家の子供たちは父に従い、アラブ人の独立国家建設する夢を追い「アラブの反乱=砂漠の反乱」に起ち上がった。やや詳しくなりすぎるかもしれないが、そのうちの三人について述べておこう。 → アラブ諸国の独立
(引用)フセインは1853年コンスタンチノープルに生まれた。彼はアラビア語よりトルコ語を得意とし、興奮するとすぐトルコ語がでたという。彼の最初の妻は彼の叔父の従姉妹で、子の結婚によって三人の息子をもうけた。すなわち、長男アリー(Ali 「高貴な」の意)、次男アブドゥッラー(「アッラーの下僕」の意)、三男ファイサル(Faysal 「審判の意」)、がそれである。この妻の死後、サーカシアン(カフカス)のアブド・アル・ハナムと結婚し、この結婚から四男ザイードが生まれた。<小山茂樹『サウジアラビア』1997 中公新書 p.68>
  • 長男アリー 1924年、イブン=サウード軍の大軍をメッカ郊外ターイフで迎え撃つ。しかし戦いを前に退去。フセインは激怒し、アリーを追い返したが、戦いは大敗。メッカ市民はパニックになりジェッダに避難。なおもサウード軍が迫る中、メッカ市民の要請でフセインはヒジャーズ王を退位、アリーが後継のヒジャーズ王となる。しかし、1924年10月13日ヒジャーズ王アリーは「城壁のないメッカの防衛は不可能」として守備隊を撤退させ、ネジュド軍はメッカに無血入城。アリーは港町ジェッダに入ったが、一年近いネジュド軍の包囲攻撃を受け、1925年12月20日、ついに降伏、イラクの弟のファイサルのもとに身を寄せた。
  • 次男アブドゥッラー 1919年5月、500人の正規軍と850人のラクダ騎兵に、5000の軍勢と合流してネジュドを目指したが、途中のオアシスでネジュド軍の夜襲をうけ大敗。第一次世界大戦後の1921年、バグダードに入ってイラク王国の独立を宣言した。しかし、フランス軍の攻撃によってダマスクスを追われた弟のファイサルをイギリスがバグダードに移したので、アブドゥッラーはトランスヨルダン王(首長)となる。1924年、ネジュド軍がヒジャーズに迫る中、それがトランスヨルダンに向かうことを恐れ、イブン=サウードの要請を受け、父フセインのヒジャーズからの退去に同意、その結果、フセインはアカバからキプロスに向かった。アブドゥッラーのトランスヨルダンはその後、1928年に正式に王国となり(委任統治が終わる)、第二次世界大戦後の1946年に完全に独立、第1次中東戦争でパレスチナのヨルダン川西岸を併合、1949年にヨルダン王国となった。しかし、それに反発したパレスチナ人によって、1951年にアブドゥッラーは暗殺された。
  • 三男ファイサル 1918年、アラブの反乱の中で父フセインからオスマン帝国からシリア奪還を命じられ、1918年にダマスクスを征服した。第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗北を受け、1920年3月、ダマスクスでアラブ人による独立国家シリア王国(大シリア王国)の独立を宣言した。しかし、シリアを委任統治することになったフランスはそれを認めず軍事行動を起こしてダマスクスを攻撃、ファイサルは敗れ、大シリア王国は崩壊した。イギリスはそのファイサルを保護して、イラク国王としてバグダードに迎え、バグダードにいたアブドゥッラーにはトランスヨルダン王の地位を与えた。ファイサルは父フセインに続きアラブの統一を夢見て行動したが、夢を実現することは出来ず、イラク国王に収まることで終わった。映画『アラビアのロレンス』ではアラブの反乱の中心人部として、アレック=ギネスが演じている。
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岡倉徹志
『サウジアラビア現代史』
2000 文春新書